一般2023年11月04日 「隣の難民」 提供:共同通信社

2度逃れた〝ダブル難民〟 投獄、そしてクーデター ミャンマーの民主化願う
「日本に逃れたのは2回目。私は〝ダブル難民〟だ」。横浜市の自宅アパートで、ティンウィン(68)は苦笑した。
ビルマ(現ミャンマー)の古都マンダレーの裕福な商家に生まれた。1988年、軍事独裁打倒を掲げた民主化運動が全土に広がると、地元でデモを組織。5カ月間、投獄される。
釈放後、ノーベル平和賞を受けたアウンサンスーチーが率いる政党・国民民主連盟(NLD)に参加し、国軍に追われるように。「地獄に落ちたような気分」で家族と別れ、96年に来日。難民認定を申請した。
支援した弁護士の渡辺彰悟(わたなべ・しょうご)が「この人が難民じゃないなら、誰を認めるの」と言うほど分かりやすいケース。2年余りかかって認定された。「でも、何も変わらなかった」とティンウィンは振り返る。
日本政府による日本語教育を受けたが、半年間では上達せず、能力を生かせる仕事が見つからない。呼び寄せた妻と子ども3人を養うため、飲食店やパチンコ店、工場など、職を転々とした。
2015年、母国の総選挙でNLDが圧勝する。その翌日、ティンウィンは東京のミャンマー大使館に赴き、失効していたパスポートの再発行を求めた。「千載一遇のチャンスだ。民主化のために働きたい」。帰国して、故郷のNLD支部で活動を再開した。
ところが、インド系イスラム教徒のティンウィンは、多数派のビルマ人仏教徒から差別に遭う。「NLDは私を重要な役職に就かせなかった。失望した。民主主義への障害は国軍より、仏教ナショナリズムかもしれない」
「Z世代」と呼ばれる10、20代の若者に民主主義について講義したり、通訳を務めたり、活動は続けていた。しかし、21年2月1日、国軍がクーデターを起こす。
「全く予想していなかった。NLDに問題があっても、民主化は確実に進んでいた。だから人々は自由を捨てたくないと、身柄を拘束されたスーチーが呼びかけなくても、デモに立ち上がった」
そのデモを国軍は武力で弾圧、近所に住む少女も犠牲になった。ティンウィンは葬儀に参列した後、再び日本に脱出した。
NLDは少数民族組織と連帯し、国軍に武装闘争を挑んでいる。内戦状態ながら、ティンウィンは楽観的だ。「若いリーダーは民族や宗教で差別しない。いずれ帰国できると信じている」
× ×
難民といえば、遠い外国のことと思われがちだ。けれど、日本にも多くの難民や避難民がいる。新型コロナウイルス禍の渡航制限が解かれ、国際情勢が各地で緊迫する中、その数は急増している。隣で暮らす彼・彼女たちを訪ねた。(敬称略、共同通信編集委員・原真)
桁違いに少ない認定
難民条約によれば、難民とは、人種や宗教、政治的意見などを理由に、母国で迫害される恐れのある人を指す。日本をはじめ条約加盟国は、難民を保護する義務を負う。だが、出入国在留管理庁が審査して難民と認めたのは、過去最多だった昨年でも202人と、欧米諸国に比べ桁違いに少ない。クーデター後、同庁は非正規滞在の在日ミャンマー人にも在留を許可する緊急避難措置を発動したものの、同国籍者の難民認定率は昨年1・3%にとどまる。
たどり着いた関空で収容 参与員は話聞かず不認定に ウガンダの性的少数者
レズビアンの仲間と一緒に暮らしていた家に、警察官が踏み込んだ。アフリカ東部ウガンダの刑法は、同性愛を犯罪とし、終身刑を規定している。30代のマリア(仮名)は逮捕され、棒のようなもので激しく殴られた。
今も下半身に残る傷は深く、手術を受けて7カ月入院した。「また牢屋(ろうや)に入れられるか、殺されるのでは」。外国に脱出しようと、ブローカーに依頼し、パスポートと日本のビザを取得。「欧州諸国はビザが出ないと言われた。自由になれるなら、どこでもよかった」
2020年、関西空港に到着。入国審査で渡航目的を疑われた。「私は性的少数者で、母国で迫害された」と訴えたが、係官は「帰れ」と繰り返す。「衝撃を受けた。その他のことは、よく覚えていない」
大阪出入国在留管理局に収容された後、難民認定を申請し、1カ月足らずで不認定とされた。異議を申し立て、口頭意見陳述を求める。有識者の難民審査参与員に話を聞いてもらう手続きだ。
ところが、参与員は「申立人の主張が真実でも、難民となる事由を何ら包含していない」と却下、異議自体も退けた。国外退去を命じられたマリアは、不認定の取り消しを国に求め提訴した。
大阪市のNPO法人「RAFIQ(ラフィック) 難民との共生ネットワーク」代表理事の田中恵子(たなか・けいこ)は、マリアの収容直後から面会に通った。仮放免で収容は一時的に解かれたものの、就労を禁じられ、いつ再び収容されるか分からない。住まいを提供し、弁護士と協力して医療記録を用意するなど、全面的に支援した。
今年3月、大阪地裁は「原告はレズビアンであることを理由に迫害を受ける恐れがある」と判決。マリアはようやく難民認定された。「うれしかった。RAFIQが助けてくれたおかげ。日本語を勉強して、お年寄りを介護する仕事に就きたい」とほほえむ。
とはいえ、マリアの経験は、日本の難民保護の不十分さを浮き彫りにした。田中が最も問題視するのは、空港で難民申請しようとすると、入国を拒否されたり、収容されたりすることだ。
保護を求めてたどり着いた日本の空港で、追い返された外国人は少なくない。元入管職員は「難民申請されると強制送還できなくなるから、入管としては入り口を閉じようとする」と解説する。
田中は「マリアのケースは、ウガンダの状況をちょっとでも調べれば、帰したらいけないと分かる。参与員も彼女の話を聞くべきだった」と批判する。(敬称略、共同通信編集委員・原真)
「恣意的運用」と反発も
難民審査の〝一審〟は出入国在留管理庁の職員が担当する。これに対し、〝二審〟は第三者の難民審査参与員が携わって意見書を提出、最終的に法相が認定するか否かの結論を下す。だが今春の国会審議で、入管庁が一部の参与員に極端に多くの審査を任せていたことが判明、「恣意(しい)的運用だ」と反発を招いた。
子ども在特の対象外に 仮放免で働けず トルコ国籍クルド人
埼玉県に住むトルコ国籍のシルバン(仮名)は中学1年生。サッカー好きで、将来は「プロの選手になりたい」と笑う。
だが、非正規滞在で、出入国在留管理庁の施設への収容を一時的に解かれた形の「仮放免」状態だ。住民票はなく、アルバイトもできず、県外に出かけるには入管の許可が必要になる。
父で40代のファリド(同)は「日本に計14年間も住んで、建設の仕事に就いて税金も払ってきた。悪いことは何もしていないのに」と嘆く。
少数民族のクルド人。トルコ東部で生まれ育つ。独立闘争を続けるクルド労働者党(PKK)に関わっていると疑われ、何度も逮捕された。
2001年、1人で日本に逃れ、難民認定を申請したものの、棄却される。入管に収容され、やむなく帰国したイスタンブールの空港で、警官に取り囲まれた。
PKKとの関係を追及されて、釈放後も取り調べが続く。13年に再び来日し、妻と子ども6人と共に難民申請した。しかし、異議も退けられ、昨年3月に全員が在留資格を失った。現在は2回目の難民申請中だ。
今年8月、当時の法相・斎藤健が、在留資格のない子どもの人権に配慮し、家族ともども在留特別許可(在特)を出すと発表した。日本初のアムネスティ(非正規滞在者の一斉正規化)である。
ただし、対象となるのは、日本で出生し、学校教育を受けている約140人に限られる。ファリド一家は末っ子のシルバンも3歳で来日したため、該当しない。
「不公平だよ。僕はトルコで生まれたけど、向こうのことは何も覚えていない。トルコに帰らされたら、いじめに遭うと思う」とシルバン。
トルコ国籍クルド人は、欧米諸国では難民認定される例が多い。一方、日本では、裁判で国に勝訴した1人が昨年、認定されただけだ。
在日クルド人を支援する弁護士の大橋毅(おおはし・たけし)は「トルコは北大西洋条約機構(NATO)加盟国で、『テロとの戦い』で日本と協力関係にある。防衛、治安政策が難民審査に影響してしまっている」と批判する。
難民と認定されず、帰国を求められても、母国が危険だと考える人は、難民申請を繰り返す。申請中の強制送還は禁じられてきたが、6月の入管難民法改正で、申請を3回以上重ねた場合は送還可能になった。
「トルコに帰れば、家族みんな捕まって、殺されるかもしれない」。そう言って、ファリドは目を伏せた。(敬称略、共同通信編集委員・原真)
送還拒否多いと法改正
「国家なき最大の民族」といわれるクルド人は、トルコやシリア、イラク、イランにまたがる地域に推計約3千万人が暮らす。日本にも、埼玉県を中心に3千人程度いる。入管庁は、クルド人を含め、送還を拒む非正規滞在者が昨年末時点で4千人を超えたとして、入管難民法改正を提案した。
大学が自腹で受け入れ 日本政府の支援なく アフガン人元留学生
事務所で昼食を取ろうとしていた時、外で物音がして、同僚が叫んだ。「逃げろ」。イスラム主義組織タリバンがアフガニスタンの政権を再び奪取した2021年8月15日。「全てが変わった」とヌーリ・ジャムシド(33)は振り返る。
宮崎大(宮崎市)に留学後、首都カブールの動物園で獣医師として働いていたが、解雇された。「海外とつながりのある人や政府機関で働いていた人をタリバンは嫌う。命の危険がある」。留学時の指導教員だった同大教授の平井卓哉(ひらい・たくや)に、メールで助けを求めた。
宮崎大は研究員としての受け入れを決定。ヌーリは幼い子ども2人と妻と共に、隣国イラン経由で22年4月に来日した。同大で勤務しながら日本語を学んだが、留学中は主に英語でコミュニケーションを取っていたため、流ちょうには話せない。就職には、言葉の壁が立ちはだかった。
そんな折、イスラム教の戒律に沿う「ハラル認証」の食肉処理施設が宮崎県西都市に建設されると報道された。平井は、宮崎大と地域振興の連携協定を結んでいる同市を通じて、施主の有田牧畜産業に連絡を取る。
同社は黒毛和牛の生産から加工、販売までを手がけており、イスラム教徒の働き手を求めていた。今年4月にヌーリと、同じ元宮崎大留学生でアフガン農務省幹部だったオルヤ・ラフィウラー(38)を採用した。
社長の有田米増(ありた・よねぞう)は「ぴったりの人材が見つかった。会社の業務を一通り経験した上で、ハラル食材の輸出に向け、営業や通訳で活躍してもらいたい」と期待を寄せる。
現在、ヌーリは調理部門でハンバーグを焼き、オルヤは牛舎で牛の世話をする。畜産が専門のオルヤは「とても幸せ」と笑顔を見せながら、「いつかは母国に帰って、人々に奉仕したい」と話す。一方、ヌーリは「家族のために頑張る。タリバン政権下では教育を受けられない。できるだけ長く日本に住んで、子どもたちを大学に行かせたい」。
宮崎大はアフガン人元留学生計7人を受け入れ、大学の基金や研究室の予算で1年間、給与を支払うなど、自腹で支えてきた。日本政府が避難させた在アフガン日本大使館の現地職員らと違い、ヌーリやオルヤに政府の支援は全くない。ウクライナ避難民への手厚い政府支援と比べても、格差は著しい。
平井は「日本語や就職、大家族の生活など、国からの支援があってほしい」と訴える。(敬称略、共同通信社編集委員・原真)
避難したのに帰国も
タリバン復権後、日本政府は大使館現地職員や家族ら約400人を日本に避難させ、200人余りを難民認定したが、政府の支援が不十分だとして帰国したり、欧米に渡ったりした人も少なくない。これに対し、来日した元留学生ら400人以上には、政府ではなく大学や自治体などが仕事や住まいを提供している。
NPO施設で一緒に暮らす スリランカの元警護員 地域と活発に交流
神奈川県鎌倉市の静かな丘の上。緑の庭に囲まれ、元修道院の建物がたたずむ。NPO法人「アルペなんみんセンター」の食堂から、おいしそうな香りが漂ってきた。
40代のスリランカ人リビ(仮名)の得意料理はカレーと、ミルクのたっぷり入った甘い紅茶だ。「ここはいろんな国の人が一緒にいて、楽しい」と話す。
故郷で政府要人のボディーガードを務めていた。少数民族組織によるテロ計画を察知し、命を狙われた。左腕には、銃弾が貫通した傷痕がある。
2002年に観光ビザで日本へ脱出し、工場などで働いた。不法就労で摘発され、茨城県牛久市の東日本入国管理センターに約1年間収容された。難民認定を3回申請したが、いずれも退けられ、裁判で争っている。
母国で殺されかけ、日本で投獄されて、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱える。仮放免状態のため、仕事もできない。でも、アルペではカレーを作ったり、精神障害者施設に出かけたり。「毎日、活動している」と充実した様子だ。
「裁判で良い結果が出るのを待っている。来日して20年以上、スリランカで過ごしたのと同じくらいになった。ずっと日本にいたい」
アルペ事務局長の有川憲治(ありかわ・けんじ)は長年、キリスト教団体で難民支援に携わってきた。シェルターと呼ぶ一時的な住まいの不足に悩んでいたところ、鎌倉の修道院が閉鎖されると聞く。無償で借り受け、NPO法人を設立して20年、30室の大規模施設をオープンさせた。
「視察で訪れたスペインやイタリアには、多くの難民支援施設があり、空港で難民申請した人をそのまま受け入れていた。日本でも誰かつくってくれないかと思っていたんですが」と笑う。
現在、ナイジェリアやエリトリアなどの仮放免者を中心に、10カ国17人が暮らす。年約4千万円に上る経費は、民間の寄付と、国や自治体の助成金で賄う。食料を提供してくれる団体も多い。
特に力を入れているのが、地域住民との交流だ。入居者に日本語を教えてくれる先生を募り、庭の畑に子どもを招き、難民に関する勉強会を開いている。入居者が市内の高齢者施設でボランティアをしたり、イベントで料理を提供したり、小学校で話をしたりすることも少なくない。
今年4月には東京都小金井市に二つ目の施設を立ち上げた。「外国人が怖いと思っていた人も、一緒にご飯を食べたら、名前で呼び合うようになる。難民を歓迎する地域が広がっていけば、日本社会は変わる」。有川は力を込める。(敬称略、共同通信編集委員・原真)
チェックない無期限収容
出入国在留管理庁は、オーバーステイなどの疑いのある外国人を原則として収容している。警察・検察による逮捕・勾留と違い、入管収容には裁判所のチェックがなく、無期限で、収容中の死者が相次ぐ。今年6月の入管難民法改正で、収容せずに社会生活を認める「監理措置」が新設されたが、適用は入管が「相当と認めるとき」に限られる。
認定申請中に就職 若手NPOの支援で コンゴのIT技術者
データベースを調べていて、政府関係者の不正の証拠を見つけた。口封じのため、同僚が次々と逮捕される。「国外へ逃げるしかない」。当時20代だったIT技術者のジョゼフ(仮名)は2019年、アフリカ中央部コンゴ(旧ザイール)から来日した。
難民申請したが、支援団体から「日本では、なかなか認定されない」と告げられる。所持金を使い果たし、ホームレスとなって東京都内の公園で寝起きした。政府が難民申請者に支給する「保護費」がようやく出始めたころ、NPO法人「WELgee(ウェルジー)」に出会った。
16年設立のWELgeeは、難民申請者が日本企業に就職できるよう伴走している。代表理事の渡部(わたなべ)カンコロンゴ清花(さやか)は「認定以外のゴールを設定した」と解説する。
難民審査は、異議手続きを含め平均で4年近くかかり、しかも98%が不認定とされる。「同世代の若い申請者が、待つだけの日々を送っている」
学生時代から海外の国連機関などで途上国支援に関わってきた渡部は、「国家に守られない人」が難民認定されなくても、経験や能力を生かして日本で人生を再建できる道を探ってきた。
ジョゼフはWELgeeで日本の企業文化や日本語を学び、キャリアについて話し合いを重ね、さまざまな企業に応募した。しかし、新型コロナウイルス禍もあって、良い返事を得られない。「難民は貧しい国から来た、教育を受けていない人というイメージがあり、理解してもらうのが難しかった」とジョゼフ。
22年、東京のIT企業シティコンピュータへの入社が決まった。社長の川原雅友(かわはら・まさとも)は「難民だから採用したわけではないが、命がけで来ているから、仕事への思いが熱い。周りも、もっと頑張ろうという気になる」と高く評価する。
ジョゼフの在留資格は、難民申請のための短期の「特定活動」から、専門職向けの「技術・人文知識・国際業務」に変更が認められた。現在は新規事業のシステム構築などに携わる。
「清花さんたちは日本の家族のよう。職場にも満足している」とジョゼフは言う。「難民など、異なる背景を持つ人がいる多様な社会の方が、創造的になれるし、バランスも取れるはずだ」
WELgeeの支援で就職が実現した難民申請者は20人に達した。渡部は「難民人材を受け入れた職場は、コミュニケーションが増えて、活性化している。社会貢献だけでなく、企業価値の向上にもつながる」と強調する。(敬称略、共同通信編集委員・原真)
乏しい難民申請者支援
日本政府はアジア福祉教育財団難民事業本部(RHQ)を通じ、難民申請者を支援している。大人1日1600円の保護費と1人暮らしで月6万円までの家賃補助が柱だが、生活保護の水準より低い上、申請から支給開始まで数カ月かかる。認定者には、RHQが半年間の日本語教育と生活ガイダンス、就労支援などを提供する。
能力生かせる仕事に就けず 子どもは三つの学校へ ウクライナ避難民
近所にロシアのミサイルが落ちた。地震のように家が揺れる。ウクライナ東部ザポロジエに住んでいたオレーシャ・ボイツォワ(43)は、夫と娘と共に隣国ポーランドに脱出した。
「でも、避難民が多すぎた。日本も受け入れていると知人に聞いて」。昨年7月に来日し、東京都営住宅で暮らす。家賃や光熱費は都が賄い、月約17万円の生活費が政府から支給される。
「支援にはとても感謝している。ただ、夫は障害があり、私が仕事をしないと生活は厳しい」。子ども向けの英語講師を務めた後、都の職業訓練プログラムに半年間参加し、職を探している。
母国では麻酔医として活躍していた。しかし、日本の医師免許がないため、同じ仕事には就けない。せめて医療に関係する職場で働きたいと考えているものの、見通しは立たない。
「医師や弁護士、教師など、ウクライナ避難民には専門性を持つ人が多いが、国家資格や言語が壁になって、能力を生かせない」。オレーシャらを支援する日本YMCA同盟の横山由利亜(よこやま・ゆりあ)は指摘。政府や自治体の支援が終了した場合、自立できる避難民は1、2割ではないかと懸念する。
娘のアナスタシア(15)は都立中と日本語学校に通い、ウクライナの中学校の通信教育も受けている。「すごく大変だけど、頑張る。今ウクライナに帰ったら、もっと大変な生活になるから」。大好きなアニメや漫画のフィギュアを並べた部屋で、つぶやいた。
ロシアとの戦いは終わりが見えない。「終わったとしても、自宅が残っているかも分からない。将来の計画を立てられないのが、一番のストレスだ」とオレーシャ。
日本政府はウクライナ避難民に対し、他国出身の難民や避難民に比べ格段に手厚い支援を行ってきた。首相の岸田文雄(きしだ・ふみお)は「国際秩序の根幹を揺るがすロシアの侵略を踏まえた緊急措置で、それ以外の方々への対応とは一概に比較できない」と弁明する。
6月の入管難民法改正で、条約上の難民に該当しない戦争避難民らを、難民に準じて保護する「補完的保護」制度が新設された。政府は、ウクライナ避難民は補完的保護対象者になると明言しており、より安定的な在留資格が付与され、生活保護の受給も可能になる。
横山は「日本でゼロから生活を始めるのだから、どれだけ支援しても、やり過ぎることはない」と言い切る。「ウクライナを前例として、外国から来た人への支援を広げていきたい」(敬称略、共同通信編集委員・原真)
2500人以上が来日
2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻すると、日本政府はウクライナ避難民の受け入れを表明。飛行機を手配し、一時滞在施設を提供するほか、自治体や企業とも連携し厚遇している。これまでに2500人以上が来日し、400人余りは帰国するか第三国へ移った。
日本語教育、半年では無理 改善必要な政府の支援策 料理店主のインドシナ難民
東京・日比谷公園に近い地下飲食街。ベトナム料理店「イエローバンブー」はサラリーマンらでにぎわう。新型コロナウイルス禍で経営は厳しいが、店主の南雅和(みなみ・まさかず)(55)は「ここに人生懸けてる」と口元を引き締める。
南は旧名ジャン・タイ・トゥアン・ビン。ベトナム戦争のさなか、南ベトナムの首都だったサイゴン(現ホーチミン)で生まれた。
1975年、北ベトナム側が勝利し、全土が社会主義化された。南ベトナムの軍人だった父は母と共に行方不明になり、南は祖父母の元で暮らす。「教育は共産党の宣伝ばかり。南側出身者は学校でいじめられる。言いたいことも言えなかった」
自由を求め、14歳だった83年、母国を脱出した。全長約14メートルの船に105人がすし詰めになり、大海原を4日間さまよった末、日本船に救助される。「出発前は、死ぬか生きるか半々だと思っていた。運が良かった」
南ら「インドシナ難民」のために、東京・品川に新設された国際救援センターで半年間、日本語教育や生活訓練を受けた。近くの工場で働き始めた時、教会関係者から奨学金を紹介され、日本の高校、大学に進む。建設会社に入り、ベトナムに駐在した。
「もともと料理が好きで、屋台を回ってレシピを教わった」。帰国後の2009年、「日本人向けにアレンジしてない、本当のベトナム料理」を出す店を開いた。
「幼い命を助けてくれたのが日本。第二の故郷として、この社会で生きていこうと、一生懸命頑張ってきた」と振り返る。
インドシナ難民受け入れをきっかけに、日本は1981年に難民条約に加入し、難民認定制度を整備。日本語教育など現在の難民支援策も、インドシナ難民向けの施策を継承している。
だが、南は「半年の日本語教育では、自立は無理」と断言する。「最後まで面倒見ないと、悪いことに走ったら、どうするのか。僕は日本国籍取ったけど、日本が難民に冷たいから、恥ずかしい」
インドシナ難民を調査する明治学院大准教授の長谷部美佳(はせべ・みか)も、言葉ができないと、良い仕事に就けず、日本社会への統合が進まないと指摘する。
「政府は最初の半年は支援するが、後は民間のボランティアに丸投げしている。難民をはじめ、外国人をどう日本に定着させて戦力にしていくか、設計する法律や専門省庁が必要だ」と長谷部。
難民が「日本に来て良かった」と心から思えるよう、認定制度や支援策の抜本的改善が求められている。(敬称略、共同通信編集委員・原真)
1万1千人を受け入れ
ベトナム、カンボジア、ラオスが社会主義に移行した1970年代以降、3カ国からの難民が急増。日本政府は78年の閣議了解で定住許可を決め、2005年までに約1万1千人を受け入れた。条約に基づき認定される難民以外では、このインドシナ難民に加え、タイやマレーシアのキャンプのミャンマー難民を「第三国定住難民」として10年から200人余り迎え入れている。
(2023/11/4)
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