訴訟手続2026年02月26日 東日本大震災15年 「再考学校防災 3・11教職員の犠牲」 提供:共同通信社

娘の行動どう思いますか? 称賛か、間違いか…考えて
東日本大震災で児童・教職員計84人が犠牲になった宮城県石巻市の旧大川小には、その日も大型バスが何台も行き交っていた。津波によって盛り上がった2階教室の床、引き倒された渡り廊下…。県内外から訪れた人たちが被災校舎を眺め、息をのむ。4年生の担任だった次男の芳樹(よしき)=当時(27)=を亡くした佐々木栄朗(ささき・えいろう)(84)は、往来を横目にハボタンの手入れにいそしんでいた。
「関係者の方ですか」。バスガイドの女性に話しかけられた。時期は定かではない。児童23人の遺族が訴えた裁判で2016年10月、教員の過失を認めて市と県に賠償を命じた仙台地裁判決の後だったか。それとも18年4月、事前の防災について学校や市の組織的過失を認定した仙台高裁判決の後だったか。いずれにしろ芳樹を「有罪」と裁かれたように感じ、思わずこう答えてしまった。「人殺しの親です」
11年3月の震災直後、芳樹を捜しに大川小へ行った時は気に留めていなかった。「学校は何してたんだ」「なぜ裏山に上がらなかった」。そんな声を聞いても、やり場のない気持ちが教員に向かっていると考えていた。
その後、市側は保護者説明会を開いたが、児童遺族とは溝が埋まるどころか、広がっていった。有識者らでつくる第三者の検証委員会を設置し、報告書をまとめても責任の所在が明確ではないと不満が噴出した。14年3月、一部の遺族が市と県を提訴した。
ほとんどの教職員遺族が口を閉ざす中、栄朗は16年ごろから度々取材に応じている。当時、育てたハボタンを校舎に持って行き、飾っていた。そのことをメディアに取り上げられたが、児童遺族に引け目や後ろめたさがあるように描写されることがあった。
そんな気持ちを話した覚えはない。むしろ「芳樹が悪者にされるのが悔しかった」。膨大な児童遺族の報道に対し、教職員は一方的に糾弾される不均衡な構図にはめられているように思えた。
救いは4年生の児童遺族が気遣ってくれることだ。「子どもを亡くしたのは私たちだけではないですから」。栄朗は今も盆に各家を回り、仏壇に手を合わせる。小学1年生から目指した教師の夢をかなえた芳樹。一生懸命で子ども思いの人柄が伝わっているのだろう。
市によると、大川小があった釜谷地区では191人が犠牲になった。「地域ぐるみで防災について考える必要があるのではないか」。栄朗は震災後、学校だけに責任を押し付けているようで、危険に感じている。
あの日、バスガイドの女性はツアー客を呼んで、栄朗の話を聞くよう促した。「今日は良かった。片方だけでなく、両方の話を聞かないと分かんないものだ」。教職員遺族の思いを知った高齢男性はそう言って帰路に就いた。(敬称略)
糾弾の構図、悔しさ募る 「私は人殺しの親です」
東日本大震災で児童・教職員計84人が犠牲になった宮城県石巻市の旧大川小には、その日も大型バスが何台も行き交っていた。津波によって盛り上がった2階教室の床、引き倒された渡り廊下…。県内外から訪れた人たちが被災校舎を眺め、息をのむ。4年生の担任だった次男の芳樹(よしき)=当時(27)=を亡くした佐々木栄朗(ささき・えいろう)(84)は、往来を横目にハボタンの手入れにいそしんでいた。
「関係者の方ですか」。バスガイドの女性に話しかけられた。時期は定かではない。児童23人の遺族が訴えた裁判で2016年10月、教員の過失を認めて市と県に賠償を命じた仙台地裁判決の後だったか。それとも18年4月、事前の防災について学校や市の組織的過失を認定した仙台高裁判決の後だったか。いずれにしろ芳樹を「有罪」と裁かれたように感じ、思わずこう答えてしまった。「人殺しの親です」
11年3月の震災直後、芳樹を捜しに大川小へ行った時は気に留めていなかった。「学校は何してたんだ」「なぜ裏山に上がらなかった」。そんな声を聞いても、やり場のない気持ちが教員に向かっていると考えていた。
その後、市側は保護者説明会を開いたが、児童遺族とは溝が埋まるどころか、広がっていった。有識者らでつくる第三者の検証委員会を設置し、報告書をまとめても責任の所在が明確ではないと不満が噴出した。14年3月、一部の遺族が市と県を提訴した。
ほとんどの教職員遺族が口を閉ざす中、栄朗は16年ごろから度々取材に応じている。当時、育てたハボタンを校舎に持って行き、飾っていた。そのことをメディアに取り上げられたが、児童遺族に引け目や後ろめたさがあるように描写されることがあった。
そんな気持ちを話した覚えはない。むしろ「芳樹が悪者にされるのが悔しかった」。膨大な児童遺族の報道に対し、教職員は一方的に糾弾される不均衡な構図にはめられているように思えた。
救いは4年生の児童遺族が気遣ってくれることだ。「子どもを亡くしたのは私たちだけではないですから」。栄朗は今も盆に各家を回り、仏壇に手を合わせる。小学1年生から目指した教師の夢をかなえた芳樹。一生懸命で子ども思いの人柄が伝わっているのだろう。
市によると、大川小があった釜谷地区では191人が犠牲になった。「地域ぐるみで防災について考える必要があるのではないか」。栄朗は震災後、学校だけに責任を押し付けているようで、危険に感じている。
あの日、バスガイドの女性はツアー客を呼んで、栄朗の話を聞くよう促した。「今日は良かった。片方だけでなく、両方の話を聞かないと分かんないものだ」。教職員遺族の思いを知った高齢男性はそう言って帰路に就いた。(敬称略)
高齢夫婦助け、津波の渦に 防ぐ対策、答え出せず
宮城県南三陸町立戸倉(とぐら)中は海抜約20メートルの高台にあり、地域の避難場所に指定されていた。東日本大震災当時の教員は「安全」だという認識で、「津波を想定できていなかった」と打ち明ける。突如襲ってきた黒い水の塊。理科教員の猪又聡(いのまた・さとし)=当時(43)=は避難してきた住民を助けようとして命を落とした。
猪又は1996年から戸倉中に勤務し、組合専従を経て2010年に職場復帰した。戸倉地区での長年の勤務経験から地元の人と関係を築き、同僚の吉田良子(よしだ・りょうこ)は「何かあったら猪又先生に頼れるという安心感があった」と振り返る。震災当時2年生だった阿部成子(あべ・せいこ)(29)は「地域の話題を理科と結びつけて教え、生徒とフレンドリーに接していた」と懐かしんだ。
11年3月11日、大きな揺れが学校を襲った。生徒と教職員はマニュアル通り校庭の中央に逃げ、住民も続々と集まり始めた。吉田によると、混乱の中で役割分担を決める猶予はなく、地域と関わりが強かった猪又が、教務主任の菊田浩文(きくた・ひろふみ)(63)と共に駐車場に行き、住民の誘導を買って出た。
地震から約40分後。菊田が海に目を向けると、大きく引いた水が白波を立てて再び岸に迫り、町をのみ込んでいった。「山に逃げろ」。校庭に向かって叫び、猪又と避難を始めたが、後方を歩く高齢夫婦に気付いた。女性はつえをついている。2人で夫婦の元に走り「少しでも高いところに」と朝礼台の上に乗せようとしたが、菊田は背後から突かれる感覚がして波の中に。渦に巻かれ、土手の木によじ登り耐えた。水が引いた頃には、猪又と夫婦の居場所は分からなくなっていた。
翌日、体育館の入り口付近で猪又の遺体が見つかった。「なんで自分だけ生きているんだろう」。菊田は葛藤し、猪又の遺族への申し訳なさを感じた。一方、猪又の両親は震災後、「聡は学校好きだったから」と教材を寄付してくれた。「猪又先生の家族や、明るく振る舞う子どもたちに教員が支えられていた」
学校では他に逃げ遅れた1年の男子生徒が亡くなったが、メディアでは生徒たちが率先して住民の避難を手助けした側面が注目された。称賛する報道の裏で菊田は「何人でも犠牲に変わりはない。想定を超えたときにどう判断するか、想像力が足りなかった」と悔やんだ。
ただ、どうすれば猪又の死を防げたか問われると言葉に詰まる。「判断以前に体が動いていましたから」。新任教員だった若生紘人(わこう・ひろと)(39)も別の高齢者を助けに行って津波にのまれた。気を失い、猪又と同じく体育館に流れ着いたが、故障した車のクラクションが鳴り響き、意識を取り戻した。「助けに行ったのは後悔していないが、正しい判断だったかは今も分からない」(敬称略)
奇跡の陰で1人残った校舎 妻の教訓「無駄にしない」
松葉づえを握る両手に100円玉くらいの水ぶくれができていた。東日本大震災発生翌日の2011年3月12日。岩手県釜石市の木村正明(きむら・まさあき)(70)は勤務していた製鉄所から線路沿いを歩いて、自宅のある鵜住居(うのすまい)地区に向かった。40代の時に右脚をけがし、後遺症がある。直線距離で約6キロ。5、6時間かかっただろうか。何十人と追い抜かれ、たどり着く頃には水ぶくれも破れてしまった。
眼前に広がる古里は土色に染められていた。津波であらゆる建物がつぶされ、自宅も跡形もない。だが妻タカ子(たかこ)=当時(53)=の無事は疑わなかった。市立鵜住居小の事務職員。避難所の住民も「地震後、小学校の子どもたちはみんな逃げた」と口々に話していた。
夜が明け、児童が避難する内陸部の小学校を訪れた。来意を告げると校長に別室に通された。「タカ子さんは1人だけ学校に残り、行方不明になりました」。そう説明された。一方、児童は隣接する市立釜石東中の生徒と一緒に高台に避難した。保護者に引き渡された子どもらを除き、学校にいた全員が助かり、メディアは「釜石の奇跡」と呼び、大きく報じた。
「指示があったのか。残らざるを得ない状況だったのか」。妻の行動に疑問が湧いた。漁師の家に生まれ育った妻は、津波の怖さを理解していたはずだ。地区の避難訓練にも母を車いすに乗せて必ず参加していた。
木村は11年6月、真相究明のため、学校や教育委員会と話し合いを始めた。分かってきたのは妻が子どもを迎えに来た保護者の対応をしていたことだ。震災2日前に津波注意報が発令された際には、児童と教員が3階に避難したのに、妻は1階で電話番をさせられた。「11日も同じような対応をしている。学校の体制の不備ではないか」。木村が問いただすと、校長は「そう言われても仕方がない」と答えた。
その裏で「釜石の奇跡」という言葉は独り歩きし、国や自治体も公然と使うようになった。木村は、ストーリーにそぐわない妻が切り捨てられているように感じた。13年3月、直談判すると市長は「美談として言われるようなものではなかった」と釈明した。その後、市は「釜石の奇跡」を使用しないと決めた。
木村がこだわったのは裁判を起こすなどして対立するのではなく、教訓を残すこと。「母ちゃんの死を無駄にしたくないから」。話し合いをきっかけに、市教委は「児童・生徒と共に全教職員も避難する」と防災マニュアルに盛り込むよう学校に通知した。
鵜住居小の校舎は17年、高台に再建された。花壇のプレートには「あの日」の説明とともに木村のメッセージが記されている。「タカ子さんが大好きだった花を植えています。今を生きられるありがたさと、津波の恐ろしさを忘れないでください」(敬称略)
子どもと先生、組織で守る 長女亡くした中学校長
東日本大震災の津波で児童と教職員計84人が犠牲になった宮城県石巻市の旧大川小で6年生の長女小晴(こはる)さん=当時(12)=を亡くした同市立湊中学校校長の平塚真一郎(ひらつか・しんいちろう)さん(59)に、学校防災について話を聞いた。
× × ×
震災当時の状況を調べると、大川小の先生たちは一人一人が現場で必死だったことが伝わってくる。また、学校がある釜谷地区は住民の犠牲も多かったことから、地域に「避難しなくて大丈夫」という空気感があったことも理解できる。しかし、児童、教職員、地域住民の尊い命は戻ってこない。管理職になって思うのは、学校の判断として「念のため」「万が一」を考えた行動を取ってほしかったということだ。
あの日の夜、勤務する中学校で避難所対応に追われながら「今ごろ小晴は寒いだろうな」と考えていた。当然、裏山に逃げただろうと。大川小の一部の児童遺族が県と市に賠償を求めた訴訟の高裁判決は、適切な避難場所や経路を定めていなかったとして、ハザードマップ外ながら学校側の組織的な過失を認めた。「学校に高度な防災を背負わせすぎ」という意見もあるが、山に逃げることは自然なことで高度とは言えない。
毎年、新任の校長や教職員の研修で大川小を案内している。必ず伝えるのは、亡くなった児童と先生は「救えた命だった」こと。学校の業務は年々幅広くなり、先生個人は防災について未熟かもしれない。ただチームとして子どもと先生の命を守る必要がある。管理職を中心に命を最優先に考えられる組織をつくってほしい。リスクに応じてマニュアルを作り直す勇気や「空振り」を恐れず避難することが大切だ。
教職員は自分や子どもたちの安全を確保した上で、地域住民の避難を手助けする役割もあるが、先生が学校にいない時間帯の対応を決められていない地域が多い。能登半島地震では、津波警報発令中、小学校を解錠できず窓を割って住民が逃げ込んだケースがあったと聞く。石巻市では地域に住む市職員なども鍵を開けることができ、教職員がいなくても避難場所として活用できる。平時から学校と地域で話し合いを持ってほしい。
昨夏のカムチャツカ沖地震の津波警報では、石巻市でも多くの学校が混乱に陥った。災害ごとに条件が違い、常に想定外が起きる。東日本大震災や大川小の教訓だけで立ち止まるのではなく、今の対策が十分かどうか問い続ける必要がある。小晴を失い一生分の涙を流した。これからは同じ思いをする人を減らしたい。
(2026/02/26)
(本記事の内容に関する個別のお問い合わせにはお答えすることはできません。)
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