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一般2025年07月02日 校長から「怠け病を治せ」と言われた男性、知人から「金目当ての裁判か」と聞かれた女性。公害病への無理解 今もやまない悪質なデマ【新潟水俣病・公式確認60年】 提供:共同通信社

「家庭教師のトライ」の運営会社が、ユーチューブに「水俣病が恐ろしいのは、遺伝してしまうこと」と解説するオンライン教材を公開していた。水俣病は遺伝も感染もしない。被害者団体などが抗議し、トライグループは公開をやめ、謝罪した。
 熊本の水俣病と同じメチル水銀が原因物質で、手足の感覚障害などの症状がある新潟水俣病は、5月31日で「公式確認」から60年を迎えた。トライ教材のような誤った認識がもたらす悪質なデマに、被害者たちは当時からずっと悩まされてきた。
 高校生の時、自ら命を絶とうとした80歳の男性と、知人から最近「金目当ての裁判」と言われ傷ついた85歳の女性に、思いを聞かせてもらった。

「差別から逃れたい」と睡眠薬を

 新潟水俣病に苦しむ水沢洋さん(80)=新潟市=は高校3年の夏、睡眠薬を買った。同級生らから「たたり」「伝染病」と中傷を受けていた。自ら命を絶ち、差別から逃れたい―。家の物置で1瓶を飲み込み、顔を真っ赤にして倒れているのを兄に見つかった。
 2日後に病院で目覚めると、医師から「絶望という病は存在しない」と諭された。それから半世紀、症状を隠しながら生きた。
 水沢さんは1944年、新潟県鹿瀬町(現阿賀町)で生まれた。家は、昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の工場がメチル水銀を含む排水を流していた排水口から約300メートル。小学校から帰ると、排水口付近に群がるハヤを釣り、七輪で焼いて食べるか、猫や犬のえさにした。赤や紫の色に染まった水を見たこともあったが、話題にはならなかった。

 ▽教師からスリッパで殴られ
 10歳の頃、飼い猫が気が狂ったようにぐるぐると回り、天井まで跳び上がって苦しそうに死んだ。自分にも症状がはっきりと現れた。「頭が割れそう。手、足、唇がしびれる」。母親に訴えた。
 病院では日射病やかっけと診断され、薬を飲んだが治らない。次第にうわさが広まり、友人から「おまえと一緒に歩くなと父ちゃん、母ちゃんに言われた」と、避けられるようになった。
 中学では、足がしびれて遅刻すると、教師にスリッパで殴られた。頭痛をこらえて机に伏せると、竹の棒で突かれた。同級生はくすくすと笑った。卒業式で校長は、証書を手渡しながら「怠け病を治し、まじめな人間になれ」と言い放った。

 ▽勘付いた妻に切り出され
 それでも自殺未遂の後は「生まれ変わろう」と思い直した。
 その後引っ越して、結婚しても子や仕事への影響を恐れ、家族にも症状を隠し通した。
 2012年、勘付いた妻が「水俣病かもしれないから、特別措置法の申請をしよう」と切り出した。「水俣病と言葉にしてくれて、すっきりした」。申請はその年に認められた。

 ▽憎しみを手放す
 70歳になった時、これまで偏見の目を向けられ、抱いていた憎しみを手放そうと、故郷を1人で訪ねてみた。「水俣病から解放され、平凡な余生を送りたい」との思いだった。
 山荘に部屋をとり、窓を開けると、眼下には阿賀野川の中流にある鹿瀬ダムが広がっていた。水面に映る月とさざ波が交わるのを眺めているうち、自身を差別した人たちを理解し、愛そうと思えた。体もすっと軽くなったような気がした。
 今もしびれは治らず、水俣病であることを忘れることはできない。2020年から始めた語り部の活動は、清算したはずのつらい記憶をよみがえらせる。それでも続けているのは「悲劇を繰り返してほしくない」。その一心からだ。

 ▽医者は水俣病と言うのに、行政は患者認定してくれない
 新潟市の菅原ハルさん(85)は、1960年ごろから約8年間、阿賀野川の河口付近に住んでいた。上流には昭和電工の工場があり、排水で汚染された魚を食べた住民が新潟水俣病にかかった。
 菅原さんは、漁師の妻が毎日川魚を家の前まで売りに来ていたのを覚えている。1975年ごろ、自身に手足のしびれやけいれんの症状が出始めた。その頃には阿賀野川から遠く離れた所に暮らしており「水俣病とは考えなかった」と振り返る。
 2015年、水俣病被害者団体が出したチラシを見て、症状が「私とほとんど同じだ」と感じた。医師に水俣病と診断され、新潟市に患者認定を申請した。認定されると補償費や医療費が給付される。しかし、認定基準は厳格で、申請は2度棄却されたままだ。
 2016年、国と昭和電工に損害賠償を求める訴訟の原告に加わった。

 ▽「金目当て」かかってきた電話
 菅原さんは、認定患者が建て替えた家が「水俣御殿」とやゆされているのを聞いたことがあった。「自分も同じようなことを言われるかもしれない」。診断や裁判のことは夫以外には黙っていたが、顔を出して活動する原告らを見るうちに心境が変わり、昨年、地元新聞社の取材に応じた。
 顔写真付きの記事が掲載された朝、知人から電話がかかってきた。「そんなにお金が欲しいの?」。その日は外に出るのも怖くなってしまった。
 「金欲しさじゃない。治らない病の補償をしてほしいだけだ」と伝え、理解してもらえたが、今でも思い出すたびに鼓動が速くなる。
 顔を出して活動することへの恐怖心は消えない。それでも「私たちがおとなしくしていたら、いつまでもこの状態が続くのでは」という危機感がある。
 菅原さんは訴える。「水俣病であることを誰もが隠さなくていい社会になるのが望み」

 ▽高齢化する被害者、見えぬ「最終解決」
 四大公害病の一つ、新潟水俣病は、1956年の熊本での水俣病公式確認に続き、1965年5月31日、新潟大学が「有機水銀中毒患者が阿賀野川下流域に散発している」と新潟県に報告したことをもって、公式確認とされる。
 患者認定には現在まで延べ2767件の申請があり、717人が認定、1649件が棄却されている。残りは審査中か取り下げ。未認定の被害者にとって訴訟が頼みの綱だが、裁判は長期化。複数回の「政治的解決」も中途半端に終わり、被害の全容解明も見通せない。
 公式確認から60年となる5月31日、新潟市で式典が開かれた。政府からは浅尾慶一郎環境大臣が出席。被害者たちの訴えは届いたのか。

(2025/07/02)

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