民事2007年08月23日 原子爆弾被爆者健康管理手当受給権と時効の援用・信義則 執筆者:酒井廣幸
1 民法は、10年の権利不行使で権利が消滅すると規定している。この消滅とは、実体的な権利義務の消滅と説明されている。しかし、一定の時の経過でもって何故に重要な財産である権利の消滅という重大な効果が生じるのかを一般人に納得させることは法律専門家でも難しい。義務者が不誠実にも義務を履行しないで権利者から逃げ回っておりながら、一定の期間(民法では、最短1年の場合が規定されている。)を経過すれば義務の履行から免れるというのは著しく不当であるとの批判が寄せられるのである。この場合によく持ち出される「権利の上に眠る者は保護されない」という論理は、聞いた瞬間はなるほどと思わせるレトリックであるが、権利はベッドや布団と異なりその上で眠れるはずがないとレトリックで反論されればひとたまりもない。
2 上記の問題点を緩衝する制度として、「時効の援用」という制度がある。時効が完成しても、義務の消滅という効果を生じさせるか否かを個人の良心・倫理感に委ねるものである。
また、義務者が時効を援用しても、時効による義務の消滅が著しく不当な結果となるような場合には、時効の援用それ自体が信義則に反し、援用が許されないというのが判例理論である。ところが、義務者自らが権利者に対して著しく不当なことをしておきながら、たまたま法律が時効の援用をしないでも5年で債務が消滅すると規定していたことから、時効消滅を理由に債務を免れようとした不届きな者が現れた。それが広島県である。そのことを示す判例が、最高裁判所平成19年2月6日判決・判例時報1964号30頁等に掲載されている。
3 上記の判例は、原子爆弾被爆者に対しては、原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律により健康管理手当が支給されることになっているところ、当時の厚生省の通達により日本国外に居住地を移した場合には健康管理手当の受給権は失権扱いとなると定めていたために、ブラジルに出国したことにより手当打切りとなった原告らがこれを求めて広島県を相手に訴訟提起した事件である。この通達は、最高裁判所によって法の解釈を誤る違法なものと認定されたが、広島県はなおも抵抗して、地方自治法236条による5年の時効による消滅を主張した。地方自治法236条は、地方自治体が負担する金銭債務について5年の時効による消滅を規定しているが、意外なことに、民法と異なって「時効の援用を要せず」としているのである。その趣旨は、法令に従い適正かつ画一的にこれを処理することが事務処理および住民の平等取扱いの理念に適することから、時効の援用を要しないと考えられたことによるものである。広島県は、これを利用して、法が時効の援用を要しないで義務が消滅することを規定しているから、義務消滅の主張が信義則に反して許されないと解釈する余地はないと争って最高裁判所まで事件を持ち込んだ。
4 従前の判例理論において、「時効援用権」が信義則を理由に阻止された結果、義務消滅の効果が認められない事例は数多くあったが、ここでは、時効援用という観念がなく援用を介さないで義務が消滅するから信義則で制限される根拠はないというのが広島県の言い分である。
5 これに対して、最高裁判所は、「時効援用権」の信義則による制限理論ではなく、そのような義務消滅の「主張自体」が信義則に反するからなお健康管理手当の支給義務を免れることはできないとして、広島県の主張を排斥した。義務者の側において、権利者の権利行使を不当に妨害するような事情があった場合には、そのような義務者は時効制度の利益を受けるに値しない者であるから、時効制度による利益を受けることができなくなって当然であろう。「時効援用権」という観念を経由するかしないかという違いがあるだけである。この点、藤田裁判官の補足意見では、本件のようなケースは地方自治法236条が想定していないケースであるから、なお時効援用の必要性とその信義則違反の有無に付論ずる必要性があるとしている。
6 この判例は、近時、世間を騒がしている年金記録喪失による年金受給権の時効に関しても有用な判例である。
(2007年8月執筆)
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