一般2025年06月03日 『Enhanced Games』―スポーツの未来か、それとも逸脱か 執筆者:大橋卓生

「Enhanced Games(エンハンスト・ゲームズ)」という新たな国際競技大会の構想が注目を集めており、2026年5月にラスベガスで開催されると発表されています。競技は陸上、水泳、重量挙げが行われるようです。Enhanced Gamesの最大の特徴は、従来の競技会で禁止されてきたドーピングを制限せず、アスリートがパフォーマンス向上のためにドーピングを容認するという点にあります。水泳の50m自由形において元オリンピック選手が薬物使用後に20.89秒を記録し、世界記録(20.91秒)を上回ったというニュースがこの大会のPRに用いられています。
この大会は、従来のスポーツ観に挑戦するものとして国際的にさまざまな議論を巻き起こしており、その創設を主導するオーストラリアの実業家、アーロン・デスーザ氏は、既存のスポーツにおけるアンチ・ドーピングの検査体制を批判し、この大会を通じて「人間の体が真に可能なことを示し、人類を進化させる機会」を提供したいと述べており、スポーツの在り方そのものを再定義することを目指しているものと思われます。
デスーザ氏の思想には、“My body, my choice(私の身体は私の選択)”という自己決定権の考えが色濃く反映されており、自らの身体をどのように強化するかは本人が決めるべきであり、それをルールで制限することは不合理であるとする主張には、一定の説得力もあります。
しかしながら、法的・倫理的な観点から見ると、この構想には深刻な懸念が存在し、まず、第一に、安全性の担保が著しく不明確であるという問題があります。
Enhanced Games側は、薬物使用が「医師の監督下で行われること」を前提としていますが、その監督体制がどのように設計され、誰がどのようにチェックするのかといったガバナンスの実態は明らかでなく、仮に薬物使用により健康被害や後遺症が生じた場合に、誰がその責任を負うのかという点についても、極めて曖昧なままとなっています。
さらに、医師の管理下にあるとしても、薬物の長期的副作用や依存性といったリスクを完全に排除することは困難であり、その意味では、個人の選択の自由が身体の安全とどのように折り合いをつけるのかという根源的な倫理問題をはらんでいます。
また、薬物使用を容認する競技構造は、スポーツが長年担ってきた「公正さ」「身体の安全」などの価値体系を根底から揺るがすおそれがあります。アンチ・ドーピング制度は、単なる技術的規制ではなく、こうした倫理的価値を制度として具体化した枠組みであることを踏まえると、Enhanced Gamesの理念はその正当性に対する根本的な挑戦であるといえます。
さらに、社会的影響も無視できず、たとえば未成年の選手や経済的に脆弱な選手が、結果を出すために薬物使用を“選ばざるを得ない”状況に置かれる可能性があるほか、SNS等で強化の過程が可視化・拡散された場合、それを模倣しようとする若年層が出現するおそれも現実のものとして想定されます。特に、Enhanced Gamesに出場するアスリートが「新たなヒーロー」として注目を集めた場合には、その影響は教育・医療・文化など、スポーツの周辺領域にも及びかねません。
他方で、この構想が既存のアンチ・ドーピング体制の課題を照らし出す契機になるという評価も一定の説得力を持ち、たとえば、禁止物質リストの合理性や、治療目的使用を認めるTUE(治療使用特例)制度の運用の硬直性などについては、かねてより専門家からの批判も根強く存在していたところであり、Enhanced Gamesが示す過激な方向性が、制度改革への刺激となる余地も否定できません。
とはいえ、現時点でのEnhanced Gamesにおいては、明確な倫理枠組みや統制体制が構築されているとは言い難く、また、同大会に出場した選手が、オリンピックや世界選手権といった他の主要国際大会への参加資格を失う可能性も高いため、長期的なキャリア形成や社会的信用の観点からも、大きなリスクを伴う挑戦であることは否定できません。
スポーツ法の実務に携わる者としては、このような動きをただ否定するのではなく、なぜ容認できないのか、制度的にどのような構造であれば正当性を持ちうるかという観点から冷静に検討していく必要があると考えています。スポーツは単なる競技の枠を超え、社会規範の形成に寄与する文化的制度であることを踏まえ、スポーツの未来像をめぐる議論について、法の立場からも積極的に関与していく必要があると考えています。
(2025年5月執筆)
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執筆者

大橋 卓生おおはし たかお
弁護士
略歴・経歴
1991.03 北海道大学法学部卒業
1991.04~
2003.01 株式会社東京ドーム勤務
2004.10〜 弁護士登録(第一東京弁護士会)
2011.11~ 虎ノ門協同法律事務所
2012.01~ 金沢工業大学虎ノ門大学院 准教授(メディア・エンタテインメントマネジメント領域)
2018.04~ 金沢工業大学虎ノ門大学院 教授(メディア・エンタテインメントマネジメント領域)
2021.08~ パークス法律事務所
【著書】
「デジタルコンテンツ法の最前線」共著,商事法務研究会,2009
「詳解スポーツ基本法」共著,成文堂,2010
「スポーツ事故の法務 裁判例からみる安全配慮義務と責任論」創耕舎、2013
「スポーツ権と不祥事処分をめぐる法実務―スポーツ基本法時代の選手に対する適正処分のあり方」共著,第一東京弁護士会総合法律研究所研究叢書,清文社,2013
「スポーツにおける真の勝利-暴力に頼らない指導」共著,エイデル研究所,2013
「スポーツガバナンス 実践ガイドブック」共著,民事法研究会,2014
「スポーツにおける真の指導力ー部活動にスポーツ基本法を活かす」共著,エイデル研究所,2014
「スポーツ法務の最前線ービジネスと法の統合」共著,民事法研究会,2015
「標準テキスト スポーツ法学」共著,エイデル研究所,2016
「エンターテインメント法務Q&A」共著,民事法研究会,2017
「スポーツ事故対策マニュアル」共著,体育施設出版,2017
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