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一般2026年01月14日 契約に関わる文豪書簡(3)―転職に際して条件闘争に勝利し、借金苦から脱出した漱石―(法苑WEB連載第20回)執筆者:中川越 法苑WEB 執筆者:中川越

●漱石は親友に借金。ずいぶん身勝手な返済計画を述べた!

 明治39年39歳の夏目漱石は、ドイツ文学者の菅虎雄に100円ぐらいの借金がありました。そこで明治39年1月14日付の菅への手紙で返済計画を伝えました。なお、菅は漱石が神経症で悩んでいた時期に、松山中学への赴任を紹介したり、熊本五高への転任もすすめるなど、終生親交が保たれた大親友でした。
 手紙の内容は次の通り、かなり身勝手なものでした。

君に返す金は矢張り十円ずつにして居る 今年中ぐらいで済むだろう。

 当時の10円は今の10~15万円ぐらいでしょうか。それにしても、借りている側が勝手に「(毎月)十円宛にして居る」と決めるとは図々しい! 少々驚きです。
 実は漱石はこの自由な宣言の前に、同じ手紙で次の布石を置いていました。

僕のうちでは又去年の暮に赤ん坊が生れた。又女だ。僕の家は女子専門である。四人の女子が次へ次へと嫁入る事を考えるとゾーッとするね。貯蓄をせんといかん。然るに去年の十二月などは色々かかって三百円近く仕払った。幸い著作の印税があったので間に合ったが、何しろ金の入るのには驚くね。

 近況報告めかしてはいますが、実は「十円宛にして居る」と伝えるための根拠、言い訳を述べたのでした。
 借金の返済をセーブするために、堂々と明るくぬけぬけと言い訳を披露する、そんな大らかな漱石を菅は愛したのかもしれません。生真面目に返済計画を説明することが、友情の証とはならない場合もあるるようです。

●漱石は転職の際しっかり条件闘争して借金生活から脱出

 さて、そんな借金生活からの脱出を可能にするチャンスが、くだんの手紙の翌年に到来しました。漱石は明治40年40歳のとき、それまでの大学の教師の地位を捨て、朝日新聞社の社員へと転職したのでした。
 入社に際して漱石は、給与、ボーナス、地位の保障などについて、朝日新聞側と事細かに交渉しました。次の条件を受け入れてもらえるのなら、喜んで入社に向けての交渉に臨むと伝えたのです。

 一 小生の文学的作物は一切を挙げて朝日新聞に掲載する事
 一 但し其分量と種類と長短と時日の割合は小生の随意たる事。(換言すれば小生は一年間に出来得る限り感興に応じ又思索の暇を見出してすべてを朝日新聞に致す事。但しもとより文学的の述作故に器械的に時間を限る能はず。小説などにても回数を受合うけあう訳に行かず。時には長くなり又短かくなり。又は一週に何度もかき又は一月に一二度しか書かぬ事あるべし。しかして小生のやり得る程度は自己にも分らぬ故づ去年中に小生がなし得たる仕事を以て目安とせば大差なからんかと存候 もっとも去年の仕事は学校へ出た上の事故専門に述作に従事せば或は量において多少の増加を見るに至るべきかなれどまづ標準はあの位と御考ありたし。しかして小生の仕事の過半は無論美文ことに小説にあらはるべきかと存候。(あるいは長きものを一回にて御免蒙るか又は坊ちゃんの様なものを二三篇かくかそのへんは小生の隨意とせられたし)
 一 報酬は御申出の通り月二百円にてよろしく候。但し他の社員並に盆暮の賞与は頂戴致し候。是は双方合して月々の手宛の四倍(?わからず)位の割にて予算を立て度と存候 
 一 もし文学的作物にて他の雑誌に不得已やむをえず掲載の場合には其都度朝日社の許可を得べく候。(是は事実として殆んどなき事と存候。既に御許容のホトヽギスといえども入社以後は滅多に執筆はせぬ覚悟に候)
 一 但し全く文学的ならぬもの(誰が見ても)或は二三頁の端もの、もしくは新聞に不向なる学説の論文等は無断にて適当な所へ掲載の自由を得度と存候
 一 小生の位地の安全を池辺氏及び社主より正式に保証せられ度事たきこと。是も念の為めに候。大学教授は頗る手堅く安全のものに候故小生が大学を出るには大学程の安全なる事を希望致す訳に候。池辺君は固より紳士なる故間違なきは勿論なれども万一同君が退社せらるゝ時は社主より外に条件を満足に履行してくれるものなく又当方より履行を要求するあて無之これなくにつき池辺君のみならず社主との契約を希望致し候。
 必竟ひっきょうずるに一度び大学を出でゝ野人となる以上は再び教師などにはならぬかんがえゆえに色々な面倒な事を申し候。

 教師時代を超える年俸を希望し、月給は200円(今の200~300万円)、賞与は年2回で1回200円を確保し、かなりの高額所得者となりました。
 当時新聞各社は、日露戦争の戦勝ムードにより販売数を伸ばしましたが、明治38年戦争が終結すると購読数が伸び悩んだため、同時期「吾輩は猫である」により、一躍文壇に躍り出た漱石の人気にあやかるべく、朝日新聞は漱石を招いたのでした。
 そしてさらに漱石は、前述の条件のほかにも、退職後の年金や、新聞の連載小説を本にして出版した場合の権利関係についてなど、様々な条件を事細かに別の手紙で尋ねています。

 何年務めれば官吏で云ふ恩給といふ様なものが出るにや、さうしてそのだかは月給の何分一に当るや。…次には仕事の事なり。新聞の小説は一回(年に)として何月位つゞくものをかくにや。それから売捌うりさばきの方から色々な苦情が出ても構はぬにや。小生の小説は到底今日の新聞には不向と思ふ それでも差し支なきや。…其うちには漱石も今の様に流行せぬ様になるかも知れず。それでも差支なきや。…それから朝日に出た小説やら其他は書物とまとめて小生の版権にて出版する事を許さるゝや 小生はある意味に於て大学を好まぬものに候。然しある意味にては隠居の様な教授生活を愛し候。これゆえに多少躊躇致候。御迷惑とは存じ候へど御序おついでの節以上の件々御聞き合せ置被下度候おきくだされたくそうろう

 確保したい条件を、質問の形で次々に提示した漱石は、文末で、〈大学の先生家業は嫌いだが、半ば隠居のようで気楽で捨てがたい。もし新聞社側の条件が自分の意に添わなければ、この話、白紙に戻したい〉といったニュアンスをにおわせたのでした。
 結果、漱石の要求はほとんど認められました。

●入社後、節税の手立てを相談して叱られた漱石

 入社した漱石は、朝日新聞の主筆よりもさらに高い年俸を得る高給取りになりました。すると清廉な漱石もやはり人の子、魔がさしました。入社後すぐに節税の工夫を、信頼できる同僚にたずねたのです。その結果…、ひどく叱られました。慌てた漱石は、手紙でこう詫びました。

 所得税の事を御聞き合せ被下くだされまして 御手数のだんどうも難有ありがとう存じます。実はあれもほかの社員なみにズルク構えて可成かなり少ない税を払う目算を以て伺った訳であります。実は今日迄教師として充分正直に所得税を払ったから 当分所得税の休養をつかまつるか左もなくばあまり繁劇なる払い方を遠慮する積りでありました。しかる所公明正大に些々ささたる所得税の如き云々うんぬんと一喝されために あおくなって急に貴意に従って真直に届け出でる気に相成りました。御安心下さい。

 この文面の大意と漱石の真意は、次の通りです。
〈所得税のことをきいてくださり、お手数をおかけました。どうもありがとうございます。実はズルをして、所定の額よりかなり少ない税を払う方法はないかを、あなたに伺おうと思ったわけです。といっても、他の社員並みのズルを考えていたので、それほど悪辣なことを計画したわけではありません。それに、実際のところ今まで教師として十分正直に税金を払いましたから、当分は納税を休養させていただかく、あるいは、あまりしょっちゅう払うことを、遠慮するつもりでした。ところが、あなたから、公明正大にやるべきだ、些細な所得税のごときで…と一喝されたために青くなり、急にあなたのアドバイスにしたがって、正しくいつわりなく届け出る気になりました。ご安心ください〉
 かくして、めでたく借金苦から脱出し、なおかつ公明正大な優良納税者の道を選んだ漱石でした。

(手紙文化研究家・コラムニスト)

【中川 越 なかがわ・えつ プロフィール】
手紙文化研究家・コラムニスト。東京新聞「文人たちの日々好日」連載中/日本絵手紙協会の「月刊絵手紙」〈手紙のヒント〉」連載中/「月刊日本橋」〈発掘!日本橋逸聞逸事〉連載中/〇主な著書 『すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―』(新潮文庫)/『文豪たちの手紙の奥義 ―ラブレターから借金依頼まで―』(新潮文庫)/『夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫』(マガジンハウス)/『漱石からの手紙 人生に折り合いをつけるには』(CCCメディアハウス)/『文豪に学ぶ 手紙のことばの選びかた』(東京新聞)/『NHKラジオ深夜便 文豪通信』(河出書房新社)など。

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執筆者

中川 越なかがわ えつ

略歴・経歴

コラムニスト、手紙文化研究家。東京都出身。書籍編集者を経て執筆活動に入る。
主な著書は以下の通り。
「改まった儀礼的な手紙の文例とポイント」(新日本法規出版)
「新版あいさつ・スピーチ全集(共著)」(新日本法規出版)
「気持ちがきちんと伝わる! 手紙の文例・マナー新事典」(朝日新聞出版)
「実例大人の基本手紙書き方大全」(講談社)
「文豪に学ぶ手紙のことばの選びかた」(東京新聞)
「文豪たちの手紙の奥義」(新潮文庫)
「すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―」(新潮文庫)
「高等学校国語表現Ⅱ」(第一学習社版)〈中川越「心に響く手紙」が3頁にわたり収載〉

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