カートの中身空

一般2024年05月08日 今年の賃上げで、実質賃金マイナスを脱却できるか(令和6年の春季労使交渉を振り返る)(法苑WEB連載第6回)執筆者:佐藤純 法苑WEB  

1 序

 物価の上昇に追い付かない賃金。今年の春闘は賃上げがどこまで引き上げられるかに注目が集中した。そこには日本が長く続いているデフレ経済から脱却できるかどうかという重要な課題がある。もし賃上げが物価上昇を上回らなければ、実質賃金のマイナスは継続して、個人消費の継続的な減少が生じ、日本経済のマイナスのスパイラルが発生する可能性がある。
 令和6年3月末までの情報をもとに、今年の春季労使交渉の検証をする。

2 定期昇給とベースアップ

 賃上げを正確に理解するには、定期昇給とベースアップの仕組みの説明が必要であるので、図1にその概要を示した。
 定期昇給とは、その企業の賃金規程の運用ルールに基づいて上昇する部分である。大企業が1.8~2%、中小企業が1.5~1.8%程度であり、右上がりのゆるやかなカーブを描いている。
 ベースアップとは、この賃金カーブ全体を底上げすることである。いくら上げるかの根拠として、労働生産性向上や消費者物価指数のアップがあり、春闘等の労使間の交渉で決まる。したがってベースアップはその年によって異なるが、失われた20年間はほとんどなかった。

 令和5年の賃金がA点だとすれば、定期昇給でB点に上昇し、ベースアップによってB点からC点にアップする。つまり、賃金はA点からC点へ上がることになり、そのアップ分は「定昇ベア」または「定昇込み賃上げ」と一般的に表現される。
 この定昇ベアで引き上げられた賃金には、物価上昇分を加味するか否かによって二つの指標がある。消費者物価の上昇分を加味したものが実質賃金、加味せずに企業が支給するそのものを名目賃金という。

3 実質賃金のマイナスの状況

 定昇ベアで賃金が上がっても、それ以上に消費者物価がアップすれば、その差額分は賃金の実質的な目減りとなる。名目賃金から消費者物価の変化分を引いたのが実質賃金である。
 今、日本の実質賃金はマイナスが継続しており、令和6年2月で連続20ケ月を超えてしまい、約2年間に及ぶことになった。
 物価上昇により原材料等の高騰が生じて販売価格がアップする一方で、実質賃金のマイナスにより、消費が抑制されるというマイナスのスパイラルが生じている。
 この状況が続けば、日本経済のデフレーションからの脱却は困難になるので、消費者物価の上昇を上回る賃上げをしなければならない。
 過去を振り返ると、日本の実質賃金がマイナスに陥った事は何度かあった。オイルショックとリーマンショックの時であるが、1年または2年経過後にプラスに転じており、3年連続してマイナスとなった例はない。したがって今年の春闘は、日本経済を成長路線に復活させる正念場といえる。

4 令和6年度の消費者物価指数の予測

 一般に給与は基本給と諸手当から構成され、その基本給は春季労使交渉の4月改定で行われている。改定された基本給は、原則として翌年の3月分まで約1年間固定される。
 一方、物価はその間も上昇を続ける傾向がある。したがって、実質賃金のマイナスから脱却するには、令和6年度の消費者物価の上昇分を見極めて、それを上回る賃上げをする必要がある。
 図2は、内閣府が公表した令和6年度の日本の経済指標の予測値である。実質GDPは1.3%、消費者物価は2.5%の上昇と見込んでいる。

 この消費者物価の上昇分に対応するには、2.5%以上のベースアップが必要だ。
 ただし、これだけではマイナス実質賃金から脱却できない。それはこのままでは令和5年度の2.5%のマイナス分を引きずっているからだ。過去の分を清算したうえで、将来の物価上昇分に対応しなければならない。これに約2%の定期昇給分と不測分が加わるかたちになる。令和6年の春季労使交渉の重要なポイントはここにあると思う。

5 組合からの要求と過去の妥結率

 春季労使交渉は、まず労働組合からの賃上げ要求でスタートする。労働組合の上部団体である連合は、今年の春闘の基本方針として、5%を超える賃上げ要求としている。具体的な内容の要求集計は、図3にしめすように定昇ベアで17606円、5.85%であった。

 これを実質賃金マイナスからの脱却ラインと比べると、ぎりぎりの状態である。さらに注意しなければならないのは、春季労使交渉の妥結率であり、過去の組合の要求に対して妥結した比率は約6割程度である。つまり5%超の要求をしても、実際の妥結は全体平均で6割程度なので、3%程度になることも予想される。それが現実となると、実質賃金のマイナスからの脱却は困難になると考えられる。

6 経営側からの回答状況

 このような要求に対して、経営側から例年にない回答状況が続いている。3月13日が集中回答日であったが、かなり高い水準である。
 組合の要求を上回る回答例もあり、日本製鉄の14%が目立つ。また二ケタ台の回答をした神戸製鋼所はベースアップだけで3万円台だ。また組合の要求に対して満額回答した企業も多く、日産、ホンダ、トヨタ等多数ある。
 注目を浴びたのは、パートタイマーや契約社員などの非正規社員の賃上げ率が、正社員よりも上回った例である。イオングルーブでは、正社員が6%台であるのに対して、非正規社員は7%台であった。
 連合の令和6年3月15日の回答集計によると、図4に示すように全体の加重平均で16469円、5.28%と高水準の回答である。

 妥結率は93%であり、過去にない高水準が続いている。

7 中小企業の課題

 春季労使交渉は、まず大企業からの回答があり、その状況を見ながら中堅企業、さらに中小企業の回答と展開していく。大企業の集中回答日直後は高い水準でも、その後に中小企業が加わることで、全体の回答平均は低下する傾向にある。連合からの最終回答集計は例年7月なので、全体の状況を見るにはしばらく待たなければならない。
 問題は中小企業がどこまで賃上げに対応できるかだ。今回の賃上げ気運の高まりは急であったので、中小企業の産業界全体の賃上げ体制が整っていない。価格転嫁の浸透、経営者の意識改善など、課題は多い。
 そのために、中小を含めた賃上げの全体平均は、現状よりも低くなることが考えられる。労務行政研究所のアンケート調査によると、最終的な賃上げ率は全体平均で3.66%と予想している。

8 労働人口の減少と賃上げ

 今回の春闘で目立ったのが、企業の賃上げの目的はマイナス実質賃金からの脱却ではなく、人材確保とした点である。
 人材不足を訴える企業が非常に多くなったが、今後急激な生産労働人口の減少が生ずる。この問題は一時的なものではなくて、回復することはなく、継続していく。図5は総理府による日本の人口構成の推移を示す図である。パーソナル研究所の調査によると、2030年において、必要生産労働人口に対して供給可能な生産労働人口の差、つまり不足する労働人口は、640万人としている。令和5年時点での千葉県の総人口が620万人なので、一県分の人口が足りないことになる。その状況は改善されずに悪化するばかりで、2050年には1000万人の労働人口が足りなくなるとの予測もある。

図5 日本の人口の高齢化の推移と将来集計

     (出典 総務省HPより)

 この問題に敏感に反応したのが大企業で、優秀な人材採用と定着を図るために、大幅な賃上げと初任給のアップを実行した。令和5年時点での大卒初任給平均は22万円台であるが、今回の春闘で25万円以上とした企業も少なくない。IT企業大手のNTTグループは、大卒初任給を30万円以上としている。
 問題は、これに中小企業が追い付いていけるかどうかである。日本全体の賃金水準をいかに上げるかという課題だけではなく、人材確保をめぐる賃上げで、企業淘汰の時代が近くまで来ているような気がする。

(社会保険労務士)
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