一般2026年05月13日 最後の晩餐(法苑WEB連載第24回)執筆者:相場中行 法苑WEB

1 永井荷風の「変節」
開高健に「最後の晩餐」というエッセイ集がある。もちろん、最後の晩餐と言っても、イエスと十二使徒との最後の晩餐ではなく、人生の最後に何を食べるかという方の最後の晩餐である。
三島由紀夫は、自決の前夜新橋の「末げん」で軍鶏鍋を食しているし、我が敬愛する断腸亭・永井荷風の最後の晩餐は、晩年の寓居であった市川の大黒屋という蕎麦屋のかつ丼だったと伝わっている。荷風の死因は胃潰瘍(胃がん?)とされているが、浅草にも出かけられないような状態で、亡くなる前日にかつ丼を食するあたりは荷風の面目躍如である。
永井荷風は、周知のとおり、内務官僚であった父のコネで横浜正金銀行に勤務する傍ら外遊して、「アメリカ物語」「フランス物語」で華々しく文壇デビューを飾った。その後、大逆事件(1910年)に衝撃を受けて、「ドレフュス事件を糾弾したゾラの勇気がなければ、戯作者に身をおとすしかない」と述懐しているが、名作と言われる「墨東奇譚」や「つゆのあとさき」は、戯作者としての作品ということらしい。荷風は大正・昭和の日本的な通俗を色濃く描いた小説家と思われがちだが、実は、ジイドやクローデルを原書で読む個人主義者であり、鴎外を敬愛する教養人であった。その意味では、荷風は、文筆家として「変節」したのちに数々の名作を生みだしたということができるのだろう。個人的には、「日和下駄」や「葛飾土産」といった珠玉の先品が「戯作者」によって生み出されたと思うと、荷風の「変節」に感謝すべきなのかも知れない。
2 宮澤俊義と天皇機関説
法律の世界で「変節」というと、思い浮かぶのが憲法学の大家・宮澤俊義であるが、宮澤は、実は美濃部達吉の弟子である。
大日本帝國憲法(明治憲法)は、ドイツ帝国(第2帝国)憲法を範として作られているというが、いわば「システム上のバグ」があるような気がして、どうもよくわからない。美濃部の天皇機関説は、イェリネックの国家法人説を基礎として天皇を法人たる国家の機関として統治権を行使する存在と位置付ける考え方である。明治憲法において、天皇が主権者であり統治権を有することは間違いないが、(シュミットの言う「民主的独裁」ではない)前近代的な独裁制としてではなく、近代的な国家システムの中で天皇の位置付けをするには、天皇機関説しか考えられないのではないかと思っている。因みに、美濃部も後述の天皇機関説事件によって東京帝大を追われたが、イェリネックの主著「一般国家学」もナチス政権下において焚書の対象となっている(イェリネックはユダヤ人である。)。そもそも、国家を自律的なシステムとしての実体と捉えるのであれば、個人崇拝とは相容れないのであるから、まあ、当然と言えば当然である。
天皇機関説は、上杉慎吉の「天皇主権説」と対立し、1920年(大正9年)にはいわゆる「統帥権干犯問題」が起きる。明治憲法11条は、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあって、統帥権は「天皇大権」のひとつである。そして、参謀総長及び海軍軍令部長が軍令について「帷幄上奏」するとされている。したがって、軍令に反する予算の縮小は統帥権干犯にあたるというのである。しかし、明治憲法は、他方で「國家ノ歲出歲入ハ每年豫算ヲ以テ帝國議會ノ協贊ヲ經ヘシ」と定めており(64条1項)、参謀総長の権限は参謀本部令に基づくものであることを考えると、参謀総長が議会の協賛を経ない予算外の軍令を帷幄上奏するというのもまた憲法違反にあたるのではないかと思われる。
さらに、1934年(昭和9年)には、「国体明徴運動」にともなって天皇機関説事件が起きる。即ち、菊池武夫貴族院議員(元陸軍中将)が「天皇機関説は『国体』に対する緩慢な謀反である。」としてその排撃を主張し、美濃部は貴族院議員を辞職するとともに、美濃部の「憲法撮要」は発禁処分となり、最終的に、岡田内閣が「国体明徴宣言」を出している(同年10月15日)。このように東京帝大を追われた美濃部の跡を襲って憲法学第一講座の教授となったのが宮澤俊義である。
因みに、昭和天皇は、むしろ天皇機関説を支持していたようで、鈴木貫太郎(当時侍従長)に「機關説がよいとか悪いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。」と語っている。その後、226事件(昭和11年)を経て、大日本帝国は破滅への途を突き進むことになるが、226事件で殺害された渡辺丈太郎陸軍教育総監は天皇機関説の支持者であったらしい。
3 8月革命
さらに進んで我が国がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した後の法曹界の最大の議題は、「国体の護持」であった。これに対して、宮澤俊義は、8月15日の無条件降伏・ポツダム宣言の受諾によって、明治憲法下の神権的な天皇主権の政治体制を捨てたことにより革命(憲法制定権力の交代?)があった、と解する「8月革命説」を展開した。今年、戦後80年を迎え、8月革命説に関しては、憲法改正に関するGHQ草案(昭和21年2月13日に松本烝治に手交されている。)を読んだ宮澤が、感動して8月革命説を唱える契機となったかのように描かれることが少なくないが、どうもこれは事実とは異なるようだ。
それどころか、宮澤は、戦時中、戦争遂行に協力的な文章を複数発表している。まず、昭和18年には「このたびの大東亜戦争をしてアジヤ(ママ)のルネサンスの輝かしき第一ページたらしめよ」(「アングロサクソン国家のたそがれ」)と言っている(らしい)。また、昭和19年の別の一般雑誌に対する寄稿においても「この戦争を勝ち抜くためには・・・武力的にも、文化的にも米英を撃滅することが絶対に必要である」としている。こういった言説を翻して8月革命説を提唱した点について、江藤淳は、「一つの人格が崩壊して別の人格が誕生したと解釈しなければ、全く理解しがたい」と評しているし、宮澤の弟子である小林直樹も「遺憾ながら戦時中には、先生本来の冷静で客観的な洞察力が多少失われたと覚しい事例がある」(ジュリスト「宮沢憲法学の全体像」所収)と指摘している。この学説の変貌が宮澤の「転向」である。因みに、丸山眞男は、昭和12年に、宮澤を美濃部の形而上学的な憲法学を否定したと捉えて、「悪くすると政治的圧迫に対して乏しい抵抗しかなしえないことの巧妙な自己弁護に堕する恐れ」があると指摘している(丸山眞男「日本の思想」岩波新書青版)。宮澤の心情を図り知ることは困難であるが、この戦時中の宮澤の態度は、宮澤と並び称される清宮四郎が京城帝大において沈黙を守っていたことと好対照である。
宮澤が8月革命説を発表したのは昭和21年5月のことであるが(宮澤俊儀「八月革命と国民主権主義」岩波文庫参照。)、この間、憲法改正については様々な議論があった。GHQ草案においては明確に国民主権が示され、象徴天皇として天皇制を維持するとの方針が示されていたが、いわゆる松本草案は、天皇を主権者として天皇大権を制限する内容にすぎなかったし、民間の憲法研究会でも、天皇を国民の一人として位置づけて国民主権に基づいて天皇が統治権を行使する、とするものや、天皇は国民の「翼賛」の下に統治権を行使するとするもの(君民共治論)などが多かったが、天皇に国事行為の権限さえ認めずいわばお飾りとする議論まであったようである(小宮京「昭和天皇の敗北」中公選書)。その中で、昭和21年2月に宮澤を委員長とする「東京帝國大学憲法研究委員会」が発足した。そして、この時点で宮澤は、GHQ草案(英語版)を入手して読んでいた。象徴天皇については、委員の一人である和辻哲郎が「象徴というのは、全体性を表すものだ、必ずしも天皇の具体的人格ではなくてもいい」と主張したのに対し、宮澤が「旗を真ん中に立てて天皇と書いておけば、それでも象徴になりますか」と質問したことを丸山眞男が紹介している(ジュリスト増刊号「宮沢憲法学の全体像」参照。)。この言動は、GHQ草案を読んだのちも、宮澤が象徴天皇制に否定的な見解を抱いていたことを示している。しかも、小宮前掲によれば、8月革命説は、実は丸山眞男が憲法研究会において提唱した見解で、宮澤が丸山の了解を得て発表したものと思われるのである。この時点で、丸山は憲法研究委員会の委員となっていたが、出征前は東京帝大法学部助教授(政治学)にすぎず、丸山が8月革命説を発表しても影響は限定されていたであろうことは想像に難くないから、丸山としても、憲法学の大家である宮澤の言説として発表されることを選択したことは十分にありえる。
4 昭和天皇の敗北
では、なぜ、宮澤は8月革命説に「転向」したのか?それは、当時の政治状況が関連していると考えざるを得ない。
日本占領下において軍政を担うGHQは、「極東委員会」の下部組織である。そして、極東委員会のメンバーであるソ連とオーストラリアは天皇制の廃止に前向きで、一部には天皇の戦争責任を問うべきであるという意見もあった。だから、天皇制を維持して間接統治を企図するGHQとしては、早々に民主憲法を制定させる必要があったのである。ところが、枢密院における議論も、貴族院における研究会でも天皇主権を維持する修正案を検討している。これでは、極東委員会に受け入れられる余地はない。他方、間接統治下においては「連合軍」の司令部が議会における議論に直接介入することはできないので、伝家の宝刀としてふるったのが公職追放である。憲法改正論議との関係では東京帝大教授松本烝治が公職追放されているが、それは松本草案に対する否定的な意思表示でもあったことは想像に難くない。そうなると、昭和21年当時、次の法曹界における公職追放者として最も可能性が高かったのが宮澤である。そう考えると、宮澤は、公職追放を免れるために「転向」して丸山説を借用し8月革命説を唱えたのではないか、との推測も容易に浮かぶところである。
また、昭和天皇も、昭和21年3月に、国体護持つまり天皇を日本国の元首と定めて天皇が統治権を有するという改正案(修正案)が主流であったところ、GHQ草案にある「象徴天皇制」でよい、との見解を示してこれを受け入れたとする説が有力である(いわゆる「第三の聖断」)。しかし、小宮前掲によると、これも神話にすぎないらしい。当時の幣原首相が、GHQ草案の修正が困難であり、かつ早期の「憲法改正」が不可避であることに鑑みて、対外的に聖断の存在を匂わせてGHQ草案の受け入れを図ったというのが真相のようだ。
実は、昭和天皇が望んでいた天皇制は、明治憲法下における主権者としての地位ではなく、イギリス型の「君臨すれども統治せず」という存在であった(小宮前掲)。
天皇は、少なくとも江戸時代以降幕末までは、政治権力を超越した俗界と無関係な「聖体」だった。明治天皇の父である孝明天皇は、文久3年に賀茂神社に攘夷を祈願されるために行幸されているが、これは、後水尾天皇以来236年振りの行幸であった。その道行は輿に担がれて、京都の民人は孝明天皇の御座される輿に遥拝して柏手を打ったというのである。ところが、明治維新によって、天皇は、帝国主義国家としての「大日本帝國」統合のための政治シンボルとして利用され、明治憲法下において「大元帥」として佩剣し、自ら乗馬すべき存在となったが、明治天皇は、これを沈黙のうちに受け入れたのである(千葉慶「アマテラスと天皇」吉川弘文館歴史文化ライブラリー参照。)。明治憲法下においては、第6条から第15条に定める「天皇大権」の一環として、統帥権(11条)が定められているが、天皇は本来、軍戈に関する世俗の事項から超越した存在なのであって、上古はともかく、武力を自ら統帥することなどもってのほかなのである。
このように考えると、昭和天皇が実は、イギリス国王と同様、「king in parliament」ないし君臨すれども統治しない地位を望んでいたという指摘は、十分に得心が行く。
5 秘儀としての最後の晩餐
ここまで、「最後の晩餐」というタイトルで、憲法改正の経緯ばかり書いてきたが、このあたりで「最後の晩餐」に戻りたい。
周知のとおり、本来の「最後の晩餐」とは、新約聖書に記載されているイエスが十二使徒(及びユダ)と共に摂った夕食のことである。イエスは、使徒の1人(ユダ)が裏切るであろうことを予言し、パンを「私の体」ワインを「私の血」として弟子にあたえた。そして、イエスと十二使徒による「共食」は、カソリックにおける聖体拝受という秘儀の淵源となっている。イエスの体を象徴するパン、イエスの血を象徴するワインを拝受することによって、イエスの弟子たちは、イエスから聖別され、イエスと宗教的な意味で一体化したのである。
キリスト教の教義において最もわからないのが「三位一体」という教義であり、過去にはエホバとイエスの関係について宗教会議で執拗に議論されている。イエスも神(又は神の子)であるとすればエホバは唯一神であるということと矛盾するし、イエスは神と一体ではない、ということになればイエスは単なる予言者(神の言葉を聞くことができる者)にすぎないことになるから、当然のことながら、三位一体はキリスト教の根本教義であり、これを否定する考えはすべて異端宣告されることになる。
無神論者である筆者には、未だに釈然としないところがあるが、キリスト教の正統教義によれば、要するに、エホバとイエス(と聖霊)は、実質的には同一であるがペルソナが異なるにすぎない、ということらしい(土橋茂樹「三位一体」中公新書)。
そして、この秘儀による聖別がイングランドを始めとする王権の在り方と深くかかわっていることを示したのが、アメリカの歴史学者エルンスト・カントロヴィッチである。
6 王の二つの身体
カントロヴィッチは、プロイセン生まれのユダヤ人で、ナチス第三帝国時代にアメリカに亡命し、1957年に「王のふたつの身体」(ちくま文庫)を著わした。
カントロヴィッチの議論を、誤謬を恐れずに要約すると、イングランド国王はふたつの身体をもつという。ひとつは、聖別された不死の身体である。イングランド国王は、イギリス国教会の首長ではあるが、宗教的権威として頂点に立つカンタベリー大司教から戴冠され、イングランドを統治することを宣誓して、同時に「信仰の擁護者」となる。この地位は、代々の国王から普遍に承継されたものであり、その意味では、イングランド国王の身体は不死なのである。もちろん、生身の王としての身体にはいつか必ず死が訪れるが、国王の「不死の身体」は次に即位する新王に受け継がれることになる。
カントロヴィッチは、「王のふたつの身体」の中で、シェークスピアの「ヘンリー5世」の例を取り上げている。この戯曲における最も魅力的で人気のあるキャラクターがフォルスタッフという破戒騎士である。イングランドの王位継承者であるハル王子(後のヘンリー5世)は、フォルスタッフと共に娼婦と戯れ、辻強盗の真似事をして放蕩の限りを尽くしている。ハル王子は、やがて反乱を鎮圧してヘンリー5世としてイングランド国王となる。フォルスタッフは、ハルの戴冠によって自分にも幸運が回ってきたと雀躍りするが、あにはからんやヘンリー5世はフォルスタッフを遠ざけてアジャンクールの戦いに勝利し、イングランドに栄光をもたらすのである。この「ハル王子」の転向は、実は変節ではなく、聖別された不死の身体をもつイングランド国王としての義務を忠実に果たしたにすぎないのである。
こういったカントロヴィッチの議論は、単なる歴史学を超えた社会構造に対する深い考察に満ちており、一種の「政治神学」である。この議論に随えば、「君臨すれども統治せず」という原則は正確ではなく、イングランド国王は形式的には統治権を有するが、聖別された(不死の身体を持つ)王としての統治権の行使は正統な根拠ないし根源、近代においては、議会の承認と翼賛において行う義務を負う、ということになりそうだ。そういう意味では、美濃部の天皇機関説においても明治憲法下における「主権者」が天皇であることを前提としているものの、上杉慎吉の天皇主権説でいう「主権」とは、やや概念が異なるように思われる。そして、憲法研究会における和辻哲郎の「象徴というのは、全体性を表すものだ」という発言は、カントロヴィッチのような深い分析に基づくものではないとしても、極めて深い洞察と示唆に満ちている。
憲法改正の渦中にあって、実は昭和天皇が希望されていた「king in parliament」という概念も、カントロヴィッチの議論を敷衍して考えると極めて得心がいく。天皇が即位する際の「大嘗祭」の内容は秘儀とされているが、大嘗祭は、天皇が即位するにあたって、天照大神を迎えて行う共食儀礼である。その内容は、暗闇の中で米(と栗?)を食べるというのが核心であり(全く公開されていなので正確にはわからない。)、これにより天皇は、皇祖天照の神威を受けて現人神となる。だから、そもそも明治憲法における統帥権を掌握する大元帥としての地位と、祖先からの皇統(万世一系)によって聖別された貴種としての天皇の地位は相容れないことになりそうだ。イングランドの王権とは、歴史的にも、社会構造的にも全く異なっているが、「現人神」としての天皇と、明治憲法下の「大元帥」としての天皇は、どこか聖別された「不死の王」と死すべき「生身の王」の区別と似ているような気がしてならない。
このように考えると、昭和天皇がイギリス流の「king in parliament」の地位を望まれたという推察には非常に説得力がある。憲法改正の径庭においても、日本側の「国体護持」としての天皇の統治権を定める修正案が水面下の交渉でGHQに拒絶されたのち、金森徳次郎(経済学者金森久雄の父)が「金森6原則」を打ち出した。これによって第1次吉田内閣の憲法改正担当国務大臣であった金森は、国民主権を明確に打ち出し、天皇が政治にかかわらないことを明らかにしたのである。その「第一」には、「従来の天皇中心の根本的政治機構を以てわが国の国体と考へる者があるが、之は政体であつて、国体ではないと信ずる」と記載され、「第六」には、「政治機構とは別個の道徳的、精神的国家組織に於ては天皇が国民のセンターオブデヴォーションであることは憲法改正の前後を通じて変りはない。(国体が変らないと云ふのは此のことを云ふのである。)」としている。金森は、ここにいう「center of devotion」を、日本語で「あこがれの中心」としているが、本来、devotinは、宗教的な情熱とか信仰心とかいう意味である。だから、この金森6原則による象徴天皇は、明治維新以前の天皇の在り方に戻ったものとも理解することもできる。そして、金森のいう「center of devotion」を、近代的な立憲民主主義政体の中であえて探すとすれば、やはり「king in parliament」が一番近似している。
そういう意味では、昭和天皇は(おそらく明治天皇も)、歴史的な日本国の文化的、社会的なアイデンティティとしての天皇の地位をよく理解されていたのではないかと拝察するほかない。そして、そういった天皇の「自己牽抑」が、515事件以降破滅に向かって突き進んでいった政治状況に対して、一種超然としていたこと(226事件及び終戦を除いて!)の原因ではないかと思われてならない。
7 美濃部達吉の矜持
他方、美濃部は、天皇機関説事件で東京帝大と貴族院を負われたのちも、枢密院の顧問官の地位にあった。そして、明治憲法においては、憲法改正は枢密院への諮問を要するとされており、GHQ草案を基本とする現日本国憲法草案も昭和21年4月に枢密院に諮問され、6月8日に可決された。この決議において、唯一憲法改正に賛成しなかったのが美濃部である。美濃部によれば、審議の対象となった現行日本国憲法案は、「国体」の変更を伴うものであるから憲法改正手続きでは定められないというのである(前掲ジュリスト参照)。法理論的には疑義の余地もあるが、推測すると、美濃部は、わずか12年前に自らを不敬の徒と非難した者たちが国民主権、象徴天皇を定める「憲法改正」案に賛成するという政治状況に生理的に耐えられなかったのではないか、という気がしてならない。
最後に、本稿は、宮澤俊義教授の転向を非難する目的は一切ないし、個人的には、戦時中の宮澤の論稿の方が「変節」であったと思っている。むしろ、宮澤教授の(丸山眞男説への?)転向によって、現在の国民主権と象徴天皇が形作られたのであるし、宮澤教授の学灯には幾多の碩学を輩出し、現在の憲法学の豊穣の基盤を築いている。ただ、宮澤は、晩年に至ってカソリックに入信し、洗礼名(ヨハネないしヨゼフ?)までもらったらしい。宮澤は、「神の代理人」から聖体を拝受し聖別されてカソリック教徒として帰依したのである。晩年の宮澤の心境を推し量ることは困難であるが、昭和21年の和辻哲郎の「象徴というのは、全体性を表すものだ、必ずしも天皇の具体的人格ではなくてもいい」という意見を再度ぶつけたら、ヨハネ・宮澤俊義は、果たしてどのように応答したであろうか、というのが素朴な疑問である。そして、仮に、カントロヴィチが30年早く生まれて、昭和21年時点でイングランド王権についての歴史的な構造認識が深化していたとすれば、新憲法制定に何らかの影響を与えたであろうか、などと妄想するのは、秋の夜長の楽しいすさみである。
2025年10月草
(弁護士)
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執筆者

相場 中行
弁護士(弁護士法人 アクトワン法律事務所)
略歴・経歴
・東北大学法学部卒,弁護士(第一東京弁護士会42期),弁護士法人アクトワン法律事務所(代表社員弁護士)
松嶋総合法律事務所にて都市銀行・ノンバンク・ リース会社・クレジット会社・カード会社等を担当し,金融法・担保法・不動産取引を主として執務。司法研修所民事弁護所付,法務研究財団研修委員,司法書士簡裁代理関係業務認定考査委員等を歴任。
・上場企業の監査役,独立委員会委員, ファンドの投資委員会委員などの経験を通じて,企業法務を得意分野とする。
・公益社団法人全日本不動産協会の全日住宅ローンアドバイザーの有識者委員,公益財団法人日弁連法務研究財団研修委員, 日本土地家屋調査士会連合会の法務委員などを務めている。
弁護士法人 アクトワン法律事務所
http://act1-legal.jp/greeting.html
<主要著書等>
『区分所有とマンションの法律相談』 (共著,学陽書房, 1987), 『借地借家の法律』 (共著, ビジネス教育出版社。 1994), 『不動産紛争・管理の法律相談』 (共著,青林耆院, 1994), 『問答式マンションの法律実務』 (共著,新日本法規出版1991), 『簡裁民事実務NAVI第2巻・第3巻(紛争類型別要件事実の基本1 ・2)j (共著,第一法規2011), 『境界紛争事件処理マニユアル』 (共編新日本法規出版, 2015)他多数
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