医療・薬事2023年09月06日 患者と医療従事者とのより望ましい関係の構築を願って 発刊によせて執筆者より 執筆者:蒔田覚

ヒポクラテスの誓いは、医師の医療倫理に関する宣誓文である。
“私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。”
“頼まれても死に導くような薬を与えない。”
“女と男、自由人と奴隷の違いを考慮しない。”
“医に関すると否とにかかわらず、他人の生活について秘密を守る。”
(原文:小川鼎三訳)
なんと崇高で美しい理念であろうか。医療従事者ではない私のような者の心にも響くものがある。文明や技術の進歩があろうとも、古代ギリシャから今日に至るまで、医療の本質は何ら変わらないと信ずる。
私の父は病弱で、私が12歳の時にくも膜下出血で亡くなった。その間、15回の入退院を繰り返している。当時は1回の入院期間も長く数ヶ月以上に及ぶことが珍しくなかった。自宅に戻ってもパジャマ姿でおり、父に肩車をしてもらったり、キャッチボールをしてもらったりした記憶はない。母に苦労ばかりをさせる父のことが大嫌いであったが、父が亡くなったときには、不覚にも涙をこぼした。父は、くも膜下出血で倒れたのちも、一人息子である私の名前だけを呼び続けたようだ。
父が亡くなった際、母は12歳の私を大人として扱い、私に解剖を承諾するか否かの判断を委ねた。私は“これまで医療に助けられた父の身体が、少しでも医療の発展に役立つのであれば”と伝えて解剖を承諾した。大学病院での解剖の結果は、くも膜下出血はコントロールできていたが、数日前から下血があり、腸管からの出血が直接死因であったことが窺われるとのことであった。しかし、診療の過程で下血の事実が家族に伝えられたことは一切なかった。
合同葬儀に招待された。“医師は200人殺して1人前になる。皆様の家族の死は医療の発展に役立った。”これが、合同葬儀での主催者の挨拶の言葉であった。
大学生の頃に、その大学病院から1本の電話があった。父のことが研究対象になったので、遺族の同意と情報提供を求めたいとのことであったが、私は“医療従事者の皆様には本当に感謝しておりお役に立ちたい思いもあるが、研究に対する協力は差し控えたい”と同意をすることができなかった。おそらく、葬儀での医師の正直な言葉に対するわだかまりがあったのであろう。“現代の医療は死屍累累の屍の上になり立っている。”葬儀での医師の話は自らへの戒めの意味もあったであろうが、遺族としては素直に受け入れることができなかった。
医療機関側で代理人を務めるようになった頃の診療記録に「ムンテラ(Mund Therapie)」という言葉は珍しくなかったが、最近はほとんど目にしなくなった。代わって「インフォームド・コンセント(IC:Informed Consent)」という言葉が溢れるようになった。「医師は、患者に対して病気に関する情報を提供し、患者が治療方針を決める」ということなのであろう。
しかし、そもそも、医学的素人である患者に治療方針など決定できるのであろうか。父との記憶はほとんどないが、“●●先生は私(父)の身体のことを一番知っている。全て任せておけば安心である”と言っていたことだけは、なぜかよく覚えている。父は“専門家に自身の身体を委ねる”との自己決定をしていたのだと思う。
人が合理的な選択をするのであれば、それは科学的根拠に基づいた専門家の意見に従うのが一番である。医師が意図的に嘘の説明をして未確立の実験的な医療を行おうとするような例外的な場合を除けば、おそらく医師の勧める治療こそが、当該患者にとって最も利益の大きい治療法であろう。
仮に、自己決定権があるとすれば、それは“不合理な選択”をすることである。宗教的な信念をもつ患者が自身の生命を賭してまで輸血を拒否するという決定は、科学的根拠に基づく合理的なものではないが、このような人格権が尊重されるべきとの理屈は理解できる。
ところが、現実の医療訴訟では、合理的であるはずの患者が、「合併症について十分な説明を受けていたら、その治療は選択しなかった」という形で争われることも少なくない。それでは、現実にその治療を受けている多くの患者はどうなるのか。結果を知った上での屁理屈のように思えてならない。社会正義の実現を旨とする法律家の主張には、ヒポクラテスの誓いのような美しさを感じることができない。
インフォームド・コンセントは信頼関係構築に資するという意見もあるが、信頼関係が成立して初めてインフォームド・コンセントが成り立つのであって、主客が逆である。人は感情の生き物である。人が他者を信頼するのは言葉ではなく、その生き様ではなかろうか。医療に関していえば、専門家である医師としての矜持、姿勢にあるように思えてならない。“ヒポクラテスの誓い”こそが医療の本質であり、インフォームド・コンセントは流行(はやり)というのが私の持論である。
医療訴訟(新受件数)は平成16年の1,110件をピークに減少傾向を示し、現在は800件前後に落ち着いている。しかし、患者側からのクレームは以前よりも遙かに増えているようだ。その背景には誤った権利意識がある気がしてならない。このような対応に医療従事者が疲弊するのは残念である、と同時に真に治療を必要とする患者やその家族にとっての不利益ともなりかねない。
20余年に亘って対人トラブル対応をしてきた私の経験を実務書の形で世に出すことができた。多少なりとも、患者と医療従事者とのより望ましい関係の構築に資することになればと願ってやまない。
(2023年8月執筆)
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執筆者

蒔田 覚まきた さとる
弁護士
略歴・経歴
蒔田法律事務所 所属
学校法人駿河台大学 理事
日本大学法科大学院 非常勤講師
日本看護協会看護研修学校 非常勤講師
東海大学認定看護師教育課程 非常勤講師
東京大学医学部附属病院 監査委員
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