一般2005年10月05日 海外旅行は、法リスクの宝庫だ。 日本人弁護士が見た中国 一般社団法人日中法務交流・協力日本機構からの便り 執筆者:菅原哲朗
1 <パスポート回収さる。>
搭乗券を挟んだパスポートが宙を舞った。
まさに外国旅行のトラブルは突然やってくる。法律事務所での大連駐在勤務を終え、周水子国際飛行場のレントゲン手荷物検査ゲートを通過しようと歩き出したときだ。前進する私の背後から音もなく忍び寄ってきた若い女性出入国管理官によってパスポートが「スー」と抜かれた。あまりの素早い手つきに驚いた私が、前を行く彼女の後ろ姿を追いかけながら「何を」と声を出すと、彼女は黙ったままページをめくって私のパスポートを確認すると待合室の座席を指さし、「WAIT!」と言って挟んであった成田行きの搭乗券を返して寄こした。パスポートを手に持って小走りに戻って行く。呆気にとられて一体何が発生したのか全く分からない。彼女から説明は一切ない。しかし、私の承諾を得ることもなく、パスポートを回収する彼女のあわて振りから、私のパスポートに問題があるのは分かった。
2 <法リスクへの対応>
これから何が起こるか予測できない。直ちに、危機管理モードに切り替えるしかない。モトローラ製の中国携帯電話のスイッチを入れ、見送りに来ていた駐在日本人スタッフに緊急事態が生じたことを伝えた。「突然パスポートを取り上げられた」「理由は不明」「とりあえず中国人秘書を飛行場に戻して欲しい」等、手短に指示した。このまま帰国便に乗れない最悪の事態を予想するしかない。
入管窓口に行き、なぜパスポートを持っていったのか、説明を求めた。出国印の日付を間違ったので、訂正の必要があるとの回答だ。良かった、私の個人ビザやパスポートに欠陥があるのでなく、印鑑を押し間違えたのだ。時間がかかるので待合い室で待機して欲しいとの説明に、ちょっと安心した。しかし、自らのミスに「ドイプチー(中国語で「ごめんなさい」の意味)」の謝罪もなく、日本語のできる係官を連れてくるわけでもなく、外国人にとって命の次に大切なパスポートを有無も言わせず取り上げるとは、入管手続きの娘さんの鮮やかな手口にあきれた。だが、リスク管理の水準は、ひとつシフトダウンした。
3 <被害者2名>
すると、日本人ビジネスマンが声を掛けてきた。彼もパスポートを取り上げられた、という。日本人被害者がこれで二人となった。苦笑しながら、被害者あいみたがいで名刺を交換する。異業種交流会の団体ツアーを先導してきた社長で、団体ビザでなく個人ビザだったので、出国手続で私と同じ列に並んだのだ。結果は明らかだが、どうも間違った日付スタンプを押した娘さんは前の担当官が間違ったとミスを認めてないようだ、と言う。約30分ほど経って上司の男性係官がパスポートを持って我々を捜しにきた。パスポートを確認すると「6月6日出国」が黒スタンプで訂正され、隣に朱も鮮やかに「6月3日出国」と新たな日付印が捺印されていた。
パスポートは海外での身分証明で、出入国のスタンプ印は、出入国記録を明示する公印による重要な証明行為だ。日付の間違いは重大で、例えば海外にいたアリバイを主張するときにも役に立たないし、海外滞在日数をカウントし課税する根拠にもなる。
過ぎてみれば、航空機に予定通り乗れたし、トラブルも結果よければ全て良しだ。しかし笑い事じゃ済まされない。被害者の二人からすれば腹立たしい限りだ。中国官憲には客に対するサービス精神がないのか。これじゃ欧米人から人権感覚の欠如と指摘されるのも無理はないと一人うなずいた。
4 <潜在能力が目覚めた。>
海外旅行は、いつも「法リスク」の宝庫だ。毎回新鮮な体験をさせてくれる。
冷静になってみると、感心したのは個々の普通の中国人が当たり前に持つ「法リスク」への基礎的な回避能力だ。
中国大陸では1992年鄧小平の南巡講話以来、改革開放の奔流が大きな渦巻となり「親方鉄鍋」の社会主義秩序からいわば「弱肉強食」の資本主義・グローバルスタンダードへと人々の社会意識が大きく変化した。ビジネス社会を見れば、一面「拝金主義」に毒されているように思える。それは国家は助けてくれない頼るものは血縁関係の身内で、最後は自力のみだという現実に触れ、普通の中国人が持つ危機に対する潜在能力が目覚めたという現象だ。
若い女性出入国管理官は自分がミスをしたと発見するや否や、俊敏な行動と手際の良い処理で断固としてパスポートを回収した。外国人旅行客の感情や言葉が通じない事態を捨象し、謝罪や「インフォームド・コンセント(医学用語:説明と同意)」と比し、自分のミスにより違法の文書が他国に流通する結果を回避する行動を優先する。
江戸時代の町火消しが屋根に登り水で消火しつつ、他方火事の延焼をくい止めるため、隣家の木造家屋を壊すように、事実を冷酷に見つめ、最善の手段を探り、何がなんでも被害の拡大を防ぐのだ。
これが法リスクにおける危機管理の「原始的な、しかし基本に忠実な姿」だと私の眼は開かされた。
(2005年9月執筆)
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