一般2018年09月05日 代言人寺村富榮と北洲舎(法苑185号) 法苑 執筆者:松本哲泓
1 明治九年五月三〇日、代言人規則により、免許を受けた代言人の氏名が発表された(司法省日誌明治九年第六六号一七頁)。同年六月一日付であり、我が国最初の免許代言人たちである。訴訟代理は、明治五年八月公布の司法職務定制において認められ、特段の資格は要求されなかったから、各地に代言人が輩出し、いかがわしい者も多くが訴訟に関わるようになった。その結果、訴訟する意思のない者にまで提訴を唆したり、依頼人を食い物にする者も現れて、その弊害が顕
著となり、訴訟を厭う国民性もあり、明治九年ころには、全国各地で、できるだけ代言人を用いないようにとの布告が出されたりした。そうした経緯を経て、政府は、明治九年二月二二日、代言人規則を制定し、それまで自由であった代言人に資格をもうけ、司法卿の免許を必要とすることとしたのであった(注1)
この日、免許を受けたのは、三四人である。その内、実に一三人が、北洲舎の出身であった。
北洲舎は、明治七年六月一五日、大阪に設立された代書・代言を業とする結社である。そして、その中心にいたのが、寺村富榮であった(注2)
2 北洲舎が生まれた明治七年という年は、大阪に裁判所ができてから、まだ二年しか経っていない時期である。明治四年七月に司法省が設置され、江藤新平の方針で、司法権の中央集権化が図られ、明治五年八月、司法職務定制により、各府県に府県裁判所が設置されることとなり、大阪には、同年一〇月、大阪裁判所が設置され、明治六年一月一八日、開庁した(司法沿革誌、大阪府布令集一 六八一頁、大阪地裁沿革小史)。
この当時、代言人が関与したのは、民事手続に限られ、その手続は、明治六年七月一七日の訴答文例(太政官第二四七号)によった。手続自体は、詳細とはいえず、各裁判所でマニュアル(節目という。)を作成していたが、江戸時代の手続を踏襲している。豊岡裁判所や高知裁判所の手続を参考に、概ねの手順を記すと、原告は、訴状正副二通を作成し、代書人とともに裁判所に出頭して目安糺(訴状審査)を受ける。訴えが適法と判断されると、裁判所は、これを受理して聴訟表を作成するとともに、訴状正本の後に召喚状を付し、これを原告に下付する。原告が、これを被告に送達する。答書(答弁書)の提出期限は原則七日後で、翌日が初席(第一回口頭弁論)となった。答書は、これも訴答文例の書式に沿わなければならなかった。初席では、多くの場合、和解が試みられ、大半の訴訟は、済口(和解)によって解決した(注3)。訴状、答書の書式は、訴答文例が、訴の種類毎に細かく定めていたので、素人では、とても提訴したり、答書の作成をすることができなかった。訴答文例は、当初、代書人の関与を必要的としていたし、その後、これを改めたが、実質的に、代書人の関与が必要であった。そして、代言人が、この代書人の役割を含めて、訴訟代理を行うようになって行くのである。代言結社も、代書及び代言を業とした。代書代言に免許を要しなかったこともあって、大阪でも、多数の代言人を輩出した。
この頃は、未だ、法律が整備されていない時代であり、司法省に伺いを立てて裁判がされていた。司法省は、各地の聴訟課や裁判所からの伺いの内、参考となるものを、聴訟指令や、また、司法省日誌に記載して公表した。これらを先例として裁判がされたことから、代言人らは、これを入手して訴状、答書を作成したのであった。
時代は、西郷隆盛や板垣退助が下野し、萩の乱や西南戦争に向かう時代であり、他方で、板垣退助らが、明治七年一月に愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書を提出し、次いで、高知に立志社を設立するなどして、自由民権運動の萌芽が見られた時代であった。
3 寺村は、天保一三年、武蔵国川越藩士寺村富道の子として、同藩領地の飛び地、滋賀県蒲生郡武佐村において生まれた。明治の初めころ、京都において川越藩の周旋方及び勘定方として務め、明治二年二月、奈良県に出仕し、聴訟方下調、断獄掛を務めるが、大阪府少属に移り、聴訟課及び断獄課を兼務し、大属に進み、明治五年四月には、奈良県に転任した。奈良県では、同県大属として、聴訟課長を命じられた。明治六年に、同県典事となったが、同年五月、部下の大藤高敏らとともに退職した。
寺村は、大阪で、代言人を志す。大阪弁護士史稿によると、都志春暉、北田正薫らと語らい、代書代言の結社を起こすことを計画したとある。代言人の地位が低かった時代であるから、府県の高級役人をした者が代言人を志したことには、違和感もあるが、聴訟断獄の職にあった者からすると、代言人の必要性を強く感じたであろうし、社会的使命感があったことと思われる。同志となった都志は、明治三年二月に奈良県に採用され、大属や少参事を務め、その間、聴訟、断獄、監察を主に担当し、明治五年一月、大阪府に転じて鞫獄課に勤務し、明治六年一月の大阪裁判所開庁の際に、司法省へ移籍し、中解部等として裁判事務を行っていた者で、寺村とは、奈良県勤務のころ知り合ったものと推察される。北田は、大阪府取締課で取締大区長をしていた者で、明治七年三月、部下の馬渡俊猷、瀬川正治とともに退職したが、寺村の計画に参加するためであったと推察される。寺村を中心に、大阪府などにおいて聴訟断獄の事務を経験した者が集ったということができる。
北洲舎は、寺村らが開業資金を田部密から借りて、同年六月一五日、大阪府北浜二丁目の借家で開業した。名の由来は、北浜の「浜」の字を「洲」に変えて、北洲舎としたものである。代書、代言、庶務、会計の四課を置き、収入は、舎の所得として、舎員のほか生徒を置き、舎員及び生徒には月俸を給することとした。当初の参加者は、寺村、北田、都志のほか、舎員として、大藤、馬渡、瀬川、岩神昮、岩成濤雄、芝耕造の六人、生徒として能川登、久代勇三郎、菊池侃二、佐藤政明の四人であった。岩神昮は、もと高知藩士で、古沢滋の兄である。明治六年一月には、京都裁判所の権少検事となった者である。岩成は宮家で勘定方をしていた者、芝は、京都裁判所において岩神の部下であった者である。
北洲舎開設の直後、元司法省三等出仕兼大検事警保頭島本仲道が、高知から東京へ戻る途中、大阪に立ち寄った。島本は、高知の出身であり、久坂玄瑞らと交わった勤王の志士であり、維新後、栄進して、明治四年八月、司法大解部となり、少判事、権少判事を経て、司法少丞、司法大丞、司法省三等出仕と進み、大検事、警保頭を兼ねたが、明治六年一一月、辞職し、高知に戻って、立志社設立に加わった者である。立志社では、法律研究所を設けて、社員、人民の権利保護を唱えて代書代言を行ったが、島本がその中心的役割を担った。その島本が大阪を訪れたわけで、同人を知る多くの者がその宿舎を訪ねた。舎員の岩神、北田の二人も、その宿舎を訪ねたが、その際、北洲舎設立のことが話題となり、話が進んで、島本に舎長を依頼するとの話が出た。島本も大いに乗り気で、舎長を引き受けた。当時の島本のネームバリューは大きかったのである。そして、北洲舎は、その規模を拡大して、大々的に代言業務を行うこととなり、同年七月一五日には、その資金として、寺村、岩神、都志、北田の四人が借主となり、島本が引受人(保証人)となって、島田組から二、〇〇〇円を借りている。同月一七日には、舎屋を今橋一丁目五番地の借家(岩成濤雄名義で借りた)に移して、その業務を展開した。
舎則では、舎員、生徒をそれぞれ五等に分け、等級によって月給を支払った。生徒は、代書代言事務を練習し、成績によって舎員に昇格した。
舎の主たる業務は依頼を受けた代書代言であったが、未だ官報の発行されていない時代であり、布告布達等を舎員が裁判所で謄写して持ち帰り、勉強した。生徒に対する教育もされ、法律家養成機関の役割も果たした。北洲舎が所有していた書籍に、仏国憲法、仏国訴訟法、仏国商法などがある。代書代言の手数料は、事件見積額の五〜一〇%であり、事件の軽重に従って増減したが、その収入は、大きく、設立の際にした田邊密、島田組からの借金二、四五〇円もすべて期限に完済している。
島本は、同年八月には、当初の予定の通り、東京に去ったが、東京で、代書代言結社である北洲舎を設け、これを本舎とし、大阪の北洲舎を支舎とした。当初、舎員は、東京と大阪を行き来して、その業務を行っていたが、同年一二月からは、東京本舎(東京北洲舎)と大阪支社(大阪北洲舎)は、舎員の帰属及びその会計を別にすることとなった。寺村は、舎長代理であったが、実質的に舎長であり、庶務を担当した。代言業務は北田が取り仕切ったようである。
4 前記のとおり、明治九年には、代言に免許を要することとなったが、その資格検査は、府県が担当した。大阪では、明治九年三月から、二九人が出願し、寺村も出願した。出願人二九人の内、北洲舎員が一三人を占めていた。当時、代言を業としていた者は多数いた筈であるが、出願者は意外に少ない。試験制度になって絞りがかけられたことや、免許料が高額であったことなどから、多くの代言人は様子見をしたものであろう。前記出願者の内、北洲舎からは、寺村を含め、八人が合格したのであった。北洲舎員はその後の代言検査でも多くの者が合格した(注4)。
北洲舎の運営は、必ずしも順調であったとはいえない。収入は大きかったが、支出も大きく、舎員、生徒の変動も大きかった。自立が可能となれば、北洲舎に止まる必要はなかったからであろう。各地に支舎を設けて、その業務の拡大を図っているが、人材の確保が難しく、長続きしていない。明治七年一二月には、広島支舎を設けて、馬渡、三宅徳馨を派遣したが、明治八年四月には、同人らの退舎によって閉鎖となる。明治八年一月には、堺支舎を設け、大藤、田村長久、伊木常久を派遣して業務を行わせたが、同年四月、大藤が上京したことから、閉鎖することとなった。ただし、明治九年に再度開設している。博多支舎については、都志が、明治八年一月、独断で開設し、これがため諍いを生じて、同年四月、都志が北洲舎を退社し、支舎も閉鎖となった。京都支舎は、明治九年四月、開設され、芝、国枝穀が担当したが、明治一一年五月、芝が死亡したことから閉鎖された。大津には、東京北洲舎が支舎を設けていたが、業務振るわず、明治一〇年二月、閉鎖となり、そこで、大阪北洲舎が、同年一〇月、改めて支舎を設けて、毛利泰吉を同支舎詰めとし、寺村、北田らが交代で出張するなどして運営したが、結局、人員不足で閉鎖した。
東京北洲舎は、開設当初は、島本の人気もあり、多くの人材が集まったが、次々と退舎し、明治一〇年には、西南戦争の際、西郷隆盛への呼応を恐れた政府に島本が収監されたことなどもあって振るわなかった。そこで、明治一三年一月、これを改革し、大阪北洲舎から、北田、吉岡完、河村訊、藤巻正太、国枝の五人を東京に送り、島本は顧問となり、北田を東京北洲舎長とし、大阪北洲舎は、寺村を舎長として、経営の再建を図った。しかし、同年五月一三日には、従前の代言人規則が廃止され、改正代言人規則が公布されるに至り、同規則は、私に社を結び、号を設けて業務をなすを禁止した。ここに、北洲舎は、同月二四日をもって、解散のやむなきに至った。
寺村は、北洲舎が解散した同月、北洲舎の事務所であった今橋一丁目五番地を事務所とし、商聲館と称して、代言の業務を行った。商聲館は、大藤、岩城之翰、毛利泰吉等、後に、河村、吉岡、石澤斎造が参加して隆盛であったという。
5 明治一三年の改正代言人規則は、各地方裁判所本支庁ごとに一つの組合を設け、組合ごとに一人の会長を置くものと定めた。そこで、大阪では、同年五月、代言人が集まって相談し、会長、副会長、立案委員五人を選ぶこととなり、同年六月、選挙により、会長に、寺村が当選した。副会長は、もと便宜商社(注5)の佐久間敏明、山下重威であり、立案委員は、大藤、三宅、菊池、小島、岡崎の元北洲舎員であった。これらの立案委員において組合規則を作成し、同年九月三〇日、検事の認可を受けて、大阪組合代言人会が設立された。寺村は、その後、明治一五年、明治一六年、明治一七年、明治一九年と、会長に選出されている。
6 明治二六年五月一日、弁護士法が施行された。代言人規則は廃止されたが、従前の代言人には無試験で弁護士資格が与えられた。弁護士法は、地方裁判所毎に弁護士会を設置すべきと規定したので、大阪弁護士会が設立されたが、寺村は、同月九日、大阪弁護士会の初代会長に当選した。この会長選挙は、熾烈であった。学校出身の者は砂川雄峻を推す者が多く、自由党系の者は山下重威を推した。創立総会は、同年五月三日午後七時、大阪市北区堂島通三丁目の大阪商法会議所において開かれ、会員中七六人が出席した。旧代言人組合会長森作太郎が議長となるが、先に会長選挙をするか、会則を議するかで、まず対立し、紛糾した。
結局、投票によって、まず会則を定め、その後に会長を選挙することとなり、同月八日、九日と会則案について審議を行い、その終了後、投票が行われた。そして、砂川派及び中立派から推された寺村が、一票差で山下を抑えて当選した。しかし、その後の弁護士会の運営は、山下派の抵抗もあって困難を極め、寺村は、同年七月二六日、業務繁忙にして到底会長の職務をとることができないとして辞任した。寺村は、以後弁護士会の役員となることはなかった。
7 寺村は、代言人、弁護士として活動する一方、大阪財界においても活動した。明治一一年七月、大阪商法会議所の設立に関与し、明治一三年四月二五日には、藤田伝三郎が設立した大阪硫酸会社(後の大阪アルカリ)の副頭取に就任した。明治一五年ころからは、大阪商船会社の設立準備に奔走した。明治一六年一〇月には、大阪商法会議所副会頭に就任した。自らは、明治二〇年五月、大阪市西区西長堀南岸通りに砂糖問屋を開業し、倉庫七棟を有したという。さらに、明治二四年四月には、向榮商行という商社をも起こした。
8 寺村は、大阪毎日新聞の発行にも参画した。明治二一年ころ、大阪実業界の機関紙を発行する計画が生じたことから、寺村は、兼松房次郎及び桑原深造と協力して、大阪日報を譲り受けた。大阪日報は、もと平野萬里らが、西川甫の出資を得、平野を社長、西川を社主として発行した新聞であるが、その後、古澤滋や小島忠里らが設立した自由党系の立憲政党の機関誌である日本立憲政党新聞の身代わり新聞とされており、立憲政党が、明治一六年三月に解党した後、岡崎高厚、沢辺正修らが持ち主となって継続していた。そして、日本立憲政党新聞が、明治一八年九月、発行停止を命じられた後、大阪日報として復刊したが、経営は著しく困難で、休刊同様の状態が続いていたのであった。
寺村らは、その大阪日報を取得し、組合組織とするなどして、明治二一年一一月二〇日から、大阪毎日新聞と改題して発行し、寺村は、明治二三年九月まで、その業務に関与した。大阪毎日新聞は、同年、株式会社組織となり、後に本山の貢献著しく、日露戦争を経て、朝日新聞に肩を並べるまでとなり、明治四四年には、東京日日新聞を合併し、今日の毎日新聞に発展している。
9 寺村は、明治二〇年一二月一〇日の大阪府会議員選挙に当選したが、翌年三月には辞任している。
10 寺村は、明治二〇年、神戸市葺合村の小野浜から兎原郡岩谷村の西手までの埋立を企て、その許可を得たが、数年を経ても、工事に着手できず、延期に延期を重ね、明治二六年四月には、規模を縮小したが、結局、失敗に帰した。寺村は、これに数万円の費用を投じ、その失敗後、財界から引退した。明治二八年七月には、弁護士を廃業し、商聲館も解散した。その後は世に出ず、風流の道に隠れて余生を送ったという。
11 寺村は、諸芸に堪能であった。特に武具刀剣を愛好し、その道では知られた存在であった。また、三味線をよくし、浄瑠璃を語った。さらに、囲碁もうまく、茶道も好んだという。人望厚く、多くの人に慕われた。胃癌に罹患し、永く病床にあったが、明治四三年八月九日、大阪市東区南農人町の自宅で永眠した。同月一一日の葬儀には、北畠治房が駆けつけて葬儀委員長となり、長柄葬儀場で告別式が行われた。もと北洲舎員菊池侃二、吉岡完は、白麻束帯、素足に草鞋、青竹を杖に棺側に付き添った。
注1 代言人制度設置の概略については、松本哲泓「代言人事典」(ユニウス二〇一六年)三頁以下参照)
注2 寺村富榮の伝記として、宮本又次「寺村富栄」大阪人物誌(弘文堂一九六〇年)二〇二頁以下がある。また、北洲舎については、大阪弁護士会「大阪弁護士会史稿上下」が詳しい。本稿はこれらによるところが大きい。
注3 松本哲泓「明治八年の豊岡県聴訟課における民事裁判」法曹第五四一号、第五四二号、大坪憲三「明治の四国法曹史」昭五六参照
注4 合格者八人は、寺村のほか、瀬川、大藤、三宅徳馨、樋田保熈、佐治公雄、岡崎高厚、吉岡完である。なお、東京における海賀直常、田村訥、堺県の川村訊、愛知県の疋田東一も北洲舎員であった。その後の大阪北洲舎の合格者に
は、明治九年中に、相澤貞久、北田、安東貞(以上大阪府)、芝耕造、国枝穀(以上、京都府)、明治一〇年に、石澤齋藏、玉沢良和、関伽井純棟、木村恕平、窪田熊太郎(以上、大阪府)、小島忠里、玉置格、岩城之翰、安永景長(以上、堺県)、菊池侃二(兵庫県)、明治一二年に、和田則得、毛利泰吉(大阪府)がいる。括弧内は、免許の府県。これらの代言人の経歴等は、松本「代言人事典」、同「明治法曹履歴事典分冊」を参照されたい。
注5 便宜商社は、北洲舎が設立された翌月、大阪府取締大区長であった佐久間、山下が中心となって設立された家屋等賃貸周旋及び代書代言を目的とした結社であり、代書代言を専ら行い、改正代言人規則の施行に伴って解散した。
(弁護士・元大阪高裁部総括判事)
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