一般2018年05月08日 正確でわかりやすい法律を国民に届けるために(法苑184号) 法苑 執筆者:長野秀幸
平成三〇年一月二二日に召集された第一九六回通常国会において、商法の条文を平仮名書き・口語体にする改正案が提出された。この改正案が成立すると、民法や刑法など国の基本法である「六法」がすべて平仮名書き・口語体となる。
思い起こせば、筆者が大学で法律学の勉強を始めた昭和五二年当時、「六法」のうち、戦後に制定された憲法、刑事訴訟法及び民法の親族編・相続編を除き、民法の総則編・物権編・債権編、刑法、商法及び民事訴訟法は片仮名書き・文語体のままであった。したがって、これらの法律を勉強する場合、そもそも書いてある条文をきちんと読めるかが最初の関門であった。特に賭博罪について規定した「偶然ノ輸贏ニ関シ財物ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲ為シタル者ハ千円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス」という刑法第一八五条本文は今でも忘れがたい。
もっとも、筆者は、高校時代に夏目漱石の全集を原文で読んでいたので、このような文体にはそれほど抵抗はなかった。そして、賭博といえば、鶴田浩二や高倉健らが主役を張った東映任侠映画にしばしば登場する賭場を想起したものである。しかし、である。「輸贏」とはなんだ、そもそもどう読めばいいのか。そして、「偶然ノ輸贏」とは何か、「博戯」と「賭事」はどう違うのか、さっぱりわからなかった。また、「千円以下ノ罰金」は、刑罰として軽すぎるのではないかという疑問もあった。結局、この規定を理解するためには解説書を読んで覚えるしかなかった。そして、解説書には、「輸贏」は「ゆえい」と読み、「輸」は負けること、「贏」は勝つこと、「偶然ノ輸贏」は、勝敗が偶然の事情、すなわち、当事者の任意に左右することのできない事情にかかっていること、そして、「博戯」と「賭事」は区別する実益に乏しいとされ、「千円以下ノ罰金」は当時の罰金等臨時措置法で「二十万円以下の罰金」に変更されると書いてあった。同様に民法その他の法律の勉強も解説書頼みとなっていき、法律学の勉強とはそういうものだと思っていた。
大学を卒業して、縁あって参議院法制局に就職した。そして、就職して一〇年ほど過ぎた頃、平成に入ってから法令の平易化の必要性が強調されるようになった。国民に対して法律を守りなさいという以上は、法律の条文は国民が読んでわかるものでなければならない。言われてみれば当然のことである。片仮名書き・文語体の法律は次々に平仮名書き・口語体に改められていき、ついに商法もその時を迎えたのである(なお会社に関する部分は平成一七年に会社法として独立していた)。ちなみに先の賭博罪は、「賭博をした者は、五十万円以下の罰金又は科料に処する。」というきわめて簡潔な条文となった。
ところで、筆者が勤める参議院法制局は、国会議員の依頼に応じて法律案や修正案を作成する機関である。依頼議員の政策を法律案・修正案という形に仕上げていくわけであるが、しばしば「議院法制局の仕事は、いわゆる「てにをは」でしょ。」と言われることがある。「てにをは」とはいわゆる助詞や助動詞などの用法をいうが、要するに議院法制局は法律案を作成するといっても所詮立法技術的なことが仕事の中心なのだろうと言っているわけである。しかし、実際は、依頼趣旨の確認から始まって、現行法制度の調査・依頼の趣旨にかなう合理的な施策の検討、議員との度重なる協議・代替案の提示などいわゆる政策形成に係る作業が立案作業全体の八割以上を占めているといっても過言ではない。このような過程を経て立法政策が固まってから条文化作業に入るのである。したがって、立法技術に係る部分は、立案作業全体から見るとその割合は小さいと言える。
しかし、このことは、立法技術の重要性をいささかも否定するものではない。固まった立法政策を正確に過不足なく表現しなければならないから、むしろ、この場面でこそ立案職員の知識と経験が存分に発揮されるのである。条文化作業は、新規法律の制定か既存法律の改正か、改正の場合は全部改正か一部改正かという法律案の形式から始まり、法律案に盛り込む内容を整理しそれを体系的に配列し、さらにこれを細分化して条文という文章の形にするというプロセスをたどる。主語と述語は何かを考え、どのような場合にどのような法律効果を持たせるかを書いていく。その際、どのような言葉を使ったらよいかを慎重に吟味する。
このように法律は言葉を書いてその意味内容を表現するが、同様に言葉を書くものとして小説・随筆などの文学の世界がある。最近筆者は「吾輩は猫である」を読み返す機会があり、改めて漱石の類まれなる表現力に驚いた。すぐれた文学作品は作者の独特の感性・表現力などで読者を魅了する。他方、法令文は、文学作品のように多彩な表現がなされるわけでもなく、人を感動させるものでもない、全く無味乾燥な文章であると言える。
また世の中では新しい言葉が次々に生み出される。毎年末に発表される新語・流行語大賞は、その年の世相を鋭く表している。昨年は、「インスタ映え」と「忖度」であった。辞典として定評のある「広辞苑」が今年一月一二日に一〇年ぶりに改訂され、約一万項目が新たに収録された。しかし、法令文は、新しい言葉を取り入れることに少なからず躊躇する。かつてのバブル時代に「リゾート」という言葉がはやり、「リゾート法」を作るべしという機運が盛り上がったが、できあがった法律の題名は「総合保養地域整備法」であった。もっとも、最近では、「サイバーセキュリティ」、「エコツーリズム」、「バイオマス」などの用語が(定義された上で)法律で使われるようになり、かなり柔軟になってきたといえる。それでも「リベンジポルノ」による被害を防止する法律は、「私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律」という題名となった。
そもそも法令文には与えられた使命がある。条文には要件と効果だけが簡潔に記述される。要件や効果に関係のない無用な記述は、法令の解釈に疑義を生じさせる原因となるので一切書かれていない。そして、条文に書かれている言葉は、すべて何らかの意味を持っている。立法者は、用語ひとつ、言い回しひとつについても細心の注意を払っている。世の中で生まれる新しい言葉もそれを法律で使うに当たっては法的に正確な意味を持って使えるかどうかを検討しなければならないのである。単に法律の条文の内容を理解するには解説書を読んで覚えれば足りると思っていた学生時代には全く想像のつかなかったことである。法律を作る、条文を書くということは、きわめて創造的な仕事である。議員立法の経験を積み重ねるうちに、学生時代に我々を悩ませた片仮名書き・文語体の条文を作成した立案担当者もその時代の状況の中でできるだけ正確な条文を作ろうと苦労したことが理解できるようになった。
現在のポストに就いて、議員立法の政策形成にかかわることはほとんどなくなり、できあがった条文を審査することが仕事の中心になった。その際、意図する立法政策が正確に表現されているか、要件・効果は正しく記述されているか、用語の使い方に間違いはないか、読みやすい文章になっているかなどについて、先入観を持たないで条文を読む。正確でわかりやすい法律を国民に届けることが自分に与えられた使命だと思っている。
(参議院法制局長)
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