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一般2017年09月14日 ポプラ?それとも…(法苑182号) 法苑 執筆者:竹澤勝美

 よく晴れた日曜日、自宅に戻ったのは夜一〇時近かった。
 今日は、午前中から車で自宅を出て都内の知人を拾って北へ向かったのだった。
 そして、幹線道路をゆっくりと一〇〇キロ以上は走った昼近くのころのことである。
 カーラジオでは、
 「…プラタナスとは葉の形が全く違います…」
 などといろいろポプラについて語っていた。
 このあたりは、かつての実務修習地にして初任明けの判事補時代の赴任地でもあるのだが、道には不慣れなため交差点で信号が青にかわっても左右を見ながら直進したのが幸いした。
 左から信号無視で突っ込んできた黒セダンの車を早期発見し、衝突を難なく回避することができた。
 しかし不幸にも私の右隣の白ワゴン車は、信頼の原則どおり、青信号に従って右折が始まっていた。
 ドンと乾いた衝突音。
 黒セダンは、後輪のホイールが宙を舞い、押し出された衝撃で姿勢を崩したまま勢い余って電柱に激突するかと息を呑んだ。が、バウンドしながらもたて直し、四〇メートルほど暴走して歩道上に辛くも止まった。歩行者がいなかったのは全くの僥倖だ。
 黒セダンの男が車から出てきて、あれだけの事故なのにさしあたり元気で何よりではあるが、白ワゴン車が弁明できないはずだと踏んで、お前が悪いと白ワゴンの男を大声で非難し出した。近くの派出所からすぐやって来た若い巡査達はそれに割って入るでもなく目撃者に問うでもなく、応援を呼んだり実況見分をする気配もない。
 同乗の知人達は、事故のときは、ラジオを聞きながら
 「ポプラの木にはポプラの葉。何千何万芽をふいて…名はみなおなじポプラの葉…」
 などと歌で盛り上がっていたため、全く証人適格がない。
 やむなく私は、「それは違うだろう。」と黒セダンの男に詰め寄り、先頭で事故をすべて目撃していたことを告げると、さすがに男は黙ってしまった。
 そうなると今度は巡査がおもむろに私に近づいてきた。


 署の交通課。
 同乗の「歌い手」達には長くなりそうだからと詫びて、すでに最寄りの鉄道本線の駅に送った。
 奥から逆光を背に受けてやってきたのは恰幅のよい警部補のベテラン交通係長で、目撃した事故について調書をとるといって厳かに万年筆をとり出し、ペン先が逆さになるように持って構えた。略式の定型用紙を用いたので久々の万年筆の出番らしい。
 住所などを聞かれて、「東京から来たのですか。」とやり取りするうちに、その係長の手が止まり、
 「あれ、検事さんじゃないですか。」
 と顔が上がった。
 私は、「いえ、確かにここにも居たことがありましたが裁判官でした。」と正すが、彼は名刺を差し出して、「自分の入りたての中央署のころだから、もう何十年にもなりますね。」と言った。
 そうか、自分の検察修習のときのあの人だ。
 「貫禄がついたので全くわかりませんでした。万年筆で思い出しました。新人で、中央署の刑事一係長についていたんでしたね。わたしも新人でしたが…。」
 当時彼は調書が苦手で、この刑事一係長からひらがなまで一画ずつ、定規を使って直線で書かされていた。
 インクが定規のスキ間に染み込まないようペン先を逆さにする習慣が今に至るわけだ。
 当時、刑事一係長や一課長らが、我々を立てて「検事さん」と呼んでいただけで、身分は修習生にすぎなかったことをこの交通係長に説明した。
 彼ら刑事達とは追加送致の多かった窃盗余罪事件で何回もやりとりするうちに親しくなったのだった。
 「いろいろお世話になりましたね。」と今や部下が沢山いるというこの交通係長に言った。
 すると交通係長は、
 「あのころすごい検事正が来ていたんでしたよね。」 と言った。


 確かにもうそんな以前の平成前、凄い男がいた。
 我々が実務修習の開始式を地裁四階の大会議室で待っていると、階下から大声、大笑いが響いてきたのだった。
 地区法曹三者それぞれのトップだから、確か三人のはずだが、様子からすると一人が話をして、自分一人でウケて笑っている感じで、他の人の影が薄い。
 その笑い声や三人の靴音が階段を昇り切り、先頭がガラリと大会議室の戸を開け放った。
 そこに気迫を全身にみなぎらせた男が立った。我々の緊張は頂点に達した。
 上機嫌でやってきた彼は、室内の張りつめた雰囲気に一瞬面くらいつつもすぐ笑顔に戻り、我々の緊張に驚いたふりをしておどけてのけぞってみせてから、直立し、
 「検事正の◯◯です。」
 ときちんと、しかしあくまで快活に名乗って会釈した。
 検事正といえば、県内すべての刑事事件処分の決裁権を掌握し、テレビの刑事物で出てくる警視正とか署長なども制度上指揮できるくらいのポストのはずだが、偉ぶりがない。その率直さが実に魅力的であった。
 修習生一同もホッと和み、場の雰囲気が一変した。
 裁判所の会議室にその所長を従えて入ってくるというのも面白い。
 豪放と礼節、威厳と気さくさが同居し、調和している。それでいてスキがなく品格がある。
 この出会いが自分の一生を決めてしまった。


 おしかけて行ったわけではないので呼んでくれたのだと思う。
 いつのまにか検事正室でお茶をすすめられて、捜査の体験や教訓を直接聞かせてもらうようになった。
 部下が手を焼いていた相手に業を煮やし、俺がやると意気込んで部屋に入っていったら、一転相手が真摯に調べに応じるようになったという話。
 この直情径行と相手の降参という僅か数秒間のできごとは、取調べの「可視化」などが関心事の現代とは全く時代が違う昭和の話である。もっと昔だと、「盗賊改めの何々だ」、「へえ」といった感じであろうか。
 上司の話も多かった。例えば特訓の話。
 特捜事件に必須の帳簿読みのための計算問題をやらされ、特捜中興の祖ともいわれた上司に「出来ました。」と持っていったものの、一暼するだけで放り出された。何度もそれがつづき、胃の薬を飲んだ。上司には間違いがなぜ一瞬でわかるのか。何のことはない、下ひとケタを足して検算していただけのことだった。上司からしてやられて口惜しがった当時の自分を振り返って、彼は微笑んだ。
 さらに私に起訴状の「が」のつかい方や、それが二回重なると「格好悪いのだよ。」などと説明しながら、赤エンピツで起案を詳細に添削してくれた。もちろん検事正のする仕事ではない。臨席者は複雑な表情であった。
 東京から様子を見に来た検察教官に今受けている「特訓」の数々を伝えると、
 「あの方からか?」
 と絶句した。
 「被疑者しか知らない事実を供述から引き出せ」という検事正からの訓示を、早速すでに親しくなっていた刑事一係長に話すと、経験二〇年の係長から「秘密の暴露くらい知っている」とばかりに、
 「それを検事さんから言われたくはないですな。」
 とヘソを曲げられた。
 刑事一課長以下、警察官は皆よくしてくれた。


 そのうち検事正の指導は厳しくなった。
 部屋に伺うと、一件記録が応接テーブルに置かれた。
 「君が腕きき弁護士なら、この事件のどこを衝く?」
 ―そんな高度な問題か。一人前を通り越して腕利き扱いまでされている心地は全く悪くはないが…。
 暫く黙っていると、
 「…不能犯といわれたらどうする。」
 ―実務で不能犯?。主張する弁護士がいるのか。
 と思いつつも回答すると、彼は無言でタバコを吸いながら部屋の一番奥の机まで歩き、傍らの窓辺にひときわ背の高いポプラの樹木を眺めながら考えごとを始めた。
 二杯目のコーヒーが運ばれてきた。
 電話で指示をした後やってきて彼は、私に、
 「これから現場を見てこい。」
 と言った。
 お迎えの警察車がやってきた。ここまで念を入れるものなのか。
 車内ではひっきりなしの無線に対してすべて刑事一課長が本部から采配をとっていた。ここにも即断断決の厳しさがあった。
 弁護士の反論を常に念頭に置いて捜査に遺漏なきを期している超一流検事の水準を、まだ駆け出しで直接体験できたのは貴重だった。
 万年筆をしまった交通係長は、なぜ検事にならなかったのかと私に修習後の進路を尋ねた。四か月間世話になった検察修習が無事終了したあの日の情景が浮かんできた…。


 「どうするんだ?」。
 終了式が終わり、タ刻になって催された立食でのことであった。
 検事正がそのお別れ会でグラス片手に、突然進路を尋ねてきたのだ。
 まずはあわててご指導に対して礼を述べ出したが、それがかえってこのような人の謦咳に接することは生涯ない、もう終わりなのだというその現実を一挙に自覚させた。
 検事になっても職制の差がありすぎて、直接具体的な仕事の指示を仰げる可能性は当然ながら絶無だ。自分は酒も弱い、などとそれまでもいろいろ思いをめぐらしてはいた。(当時は酒も仕事のうちであった。)
 不意をつかれて、そのジレンマがおかしな態度となってあらわれた。
 検事正は、かつて修習開始の懇親の席上であいさつに立ったとき、「自分は若くして合格したので、勧められて出世の望めるこの道に進んだ。」と言ってのけた。天晴れな真正直だ。
 それを逆手にとって、私は、「自分は若くして合格していないから出世できない。」と言った。
 さらに返す刀で「弁護士になって」云々と、端無くもかりにそう思っても大方は決して口にはしない「野心」まで嘯いていた。
 出世と年次ひとつとってもそう簡単に言い切れるものでもない上にこの物言いでは屁理屈を超えて挑発だ。
 まあ言ってしまったことは本心でなくとも仕方がない。(現に私は修習後弁護士ではなく裁判官になった。)
 これで怒られれば、かえってキッパリと気持ちの整理がつくともいえるし、轟く名声もそんなものかと生涯の得難い経験だ。
 ところが、そのような慮外者に対して、「そうか。」と応ずるまではまだよい。
 彼は耳もとに近づいてきて、しかし大きな声で、
 「実はオレもそう思っているんだよ。」
 と、何か奸計でも一緒にたくらんでくれそうな悪戯っぽい目でチラリと私を見て笑い、去っていったのだ。
 旭日天に昇る五〇歳そこそこのこの人に、何の「転進」や「野心」の必要があろうか。
 呆然として、その後のことはあまり覚えていない。
 なるほどさすがに大きい…。
 これでは「検事正について行きたい。」と思うのが人情というものだろう。もちろん部下となったら(雑巾がけ程度の私はカヤの外にせよ)ケンカも覚悟で、しかもクビはおろか命がけではあろうが。
 世話役としてこの一部始終を遠巻きで見守っていた羽幡係長はホッと胸をなでおろした。しかしこのあとの二次会には「来なくていい。」と言った。
 まさかのちに上司として仰げることになろうとは、そのときは思いもしなかった。


 「検事正」が当時この地方検察庁に赴任していた期間は結局僅か一年余りであった。
 貴重な一瞬の接点、前の年に合格していたら全く違う人生だった。
 「検事正」は、二〇代前半からすでに少壮検事として日々「事上磨練」だった。
 事上磨練とは、検察幹部が説く心得であり、机上の学問もいいが、事にあたり対処するその都度、それが自分を磨く貴重な機会だと心得てしっかりやれという意味である。「練磨ともいう…。」と「検事正」がつけ加えてくれた。
 確かに彼には「先輩」の後ろ盾があったと思う。彼をきたえるために腹心に特訓をさせたのも、検事になるのを勧めてくれたのもこの人ではないか。こうして彼(「検事正」)を手塩にかけて育て上げる。やがて彼ら二人は「戦後最大の疑獄事件」という最高の見せ場でしかも検察の鼎の軽重が厳しく問われた中で、満を持して検事総長と主任検事として登場したと書くと、出来すぎた話ではある。しかしいくら、若いころから「検事正」にこのような有力な理解者があっても、事件というものは水物だ。
 「主任検事の手柄一人占めという人もいるが、失敗したときの責任も自分一人で負うのに…。」
 と、後にポツリと語ったことがある。(もちろんこれくらいの事件の最終責任者は検事総長である。「先輩」は退官後ではとりようのないその責任を勲章を返上してでもと当時その覚悟を示したという。)
 まして、本物はやたらにキレイ事を吐かない。かえってあのあいさつのように出世云々などと本心でもないのに時に露悪的ですらあり、良識然とした人々には誤解すら与えかねない。
 こうしてみると、私が指導をうけたころは、あの大事件も一段落つき彼の検察官人生でも数少ない穏やかな日々だったのではなかろうか。
 そうはいっても仕事に手は抜かない。管内のすべての事件の勾留満期のチェックという地味な仕事まで自分でしていた。
 自分で考案したチェック用のスタンプを押捺してみせてくれた。そしてひと言。
 「不当勾留は怖いぞ。」…。
 主のいなくなった庁舎は、青空にそびえるポプラを見てすら寂しかった。当時私は、検察庁の後、裁判や弁護の修習に入っていたが、すっかり気が抜けていた。 それだけにこの地方検察庁に後任の検事正と次席が着任後、すでに検察は「卒業」したはずなのに、宴席も含めてこれら新幹部からも薫陶に与れたのはうれしかった。
 後に、大物政治家の弁護人としてマスコミに揉みくちゃにされているのをみて、この後任の検事正が、その後退職して弁護士に転進していたことを知った。
 「大物ヤメ検」とも報じられたこの人の活躍を喜んだ。
 それが我が「検事正」の頂点をめざす浮上へとつながる伏線となるのだが、こういった前任と後任を輩出したこの地方検察庁も因縁じみている。
 いずれにせよこのときのヤメ検の弁護は結果的にうまくいったのだが、彼に依頼した政治家や、かばった人達への風当たりは止まなかった。
 検察不信とその改善までが焦眉の国民的課題となり、ヤメ検も表舞台を去った。
 一方、こうしてマスコミや世論の追い風に乗り、硬骨居士の援護射撃や、ついには「鶴の一声」まで出て、「検事正」は東上するに従ってポストを進め、検察一万人のトップにまで上りつめた。
 このとき、すでに裁判官から弁護士になっていた私は、この報に接したときはもちろん喜んだが、
 「これでますます遠い人になったな。」、
 と食堂で新聞をたたんだものだった。
 私にとっては、修習生のころからずっと「検事正」のままだとしても彼の社会的地位はすでに鬼平を超えて幕閣だ。
 それでもトップになるその数年前の、「検事正」が東京にいたころには、自分の裁判官退官のあいさつに伺ったことがあった。
 平成のはじめのころだ。
 突然ではあったが、すぐに快く迎えてくれたのが有難かった。
 話が終わるころ、彼は立ち上がって、窓のブラインド越しに街並みを後手に組んで眺めた。
 そしてポツリと、「俺ももう退職だよ…。」
 と言った。
 その冗談に、相変わらずだなと思いながら大笑いしたものの、確かにそのときの肩ごしの表情には、それとなく孤影があった。と思った。
 ところがその翌日の新聞は、戦後三本の指に入る大汚職事件の強制捜査開始の大見出しだ。どこのテレビもあの段ボール運びの行列一色で、世の中は大騒ぎだ。
 本当に人が悪い。からかっている。
 それはそうだろう。昨日伺ったときは、その日御前会議(検察最高幹部会議―最終的にいよいよ強制捜査を開始するという意思決定を固めて組織を統一する会議で、総長や検事長の臨席する中、主任検事がプレゼンして彼らの質疑や指示の後検事総長が裁可を下すこととなる。)を終えて嵐の前の一服だったということか。ずい分邪魔をしたものである。
 ということは当日は、早朝、あの神社にいつもより高めの賽銭を投げ入れて参拝していたのか…。


 ―事故の取調べに協力した日曜日も陽が陰ってきた。
 交通係長とはすでに一時間程前に別れた。
 夕方になり、東京に戻る高速道に乗る前に道沿いのカフェレストランの窓際で外を眺めていた。
 「検事正」は検察トップを退官後弁護士になり、都心に事務所を構えたのだった。
 しかし検察の現状に関係する報道や記事に接すると、秋霜烈日の眼光になり、資料や情報の収集と確認に怠りがなかった。
 そして歴代トップその他の人物像などを混じえ、検察について話は尽きなかった。
 何せ役所と違い、時間はタップリあった。
 密室に二人で四時間もいるとタバコの伏流煙で顔面がそう白になる。
 結局やはり生まれながらの検事だった。
 検察畑の友人が言ったことがある。
 「捜査がデキるのは当然だ。それだけでなく、もとより人がついてくる徳がなければ大仕事は遂げられない。あのころの検察には伝説やカリスマを組織として頂き、それが全体のモラールやコンプライアンスを高めていたというシステムの妙があった。」
 しかし、功名心からくる個人プレーの弊もあろう。それほど簡単ではないのではないか。まあ「あつものに懲りてナマスを吹く」のも困りものだが…。
 「大体この世に神様などいないから地道に捜査するのだ。自分は単純に彼が好きなだけだから制度がどうのは関係がない」…。
 しかし不満そうなので、
 「政治権力も捜査権も必要悪だという仮定でその時々でバランスをとる他あるまい。」
 と友人に言った。
 「検事正」が政治について語ることは少なかっただけに何度か「五五年体制」という言葉を使っていたのが印象に残る。
 仕事で求められたある憲法意見書の草案を見せると、「検事正」から「権利が多い」と却下されそうになり、
 「この部分は政府委員の著書の丸写しです」
 と脚注を見せながら暴露して彼の法律事務所で笑い合ったことがある。
 彼の学んだ終戦時のころの大学での憲法学が混乱していないはずがなく、世代的にこの却下理由に無理はない。
 しかし彼は贈収賄罪を、「納税者、国民が被害者だ。」と講演で喝破するほど、人権の本質を事上磨錬で体得した稀有の存在だった。


 そうこうするうち日曜日は夕方から夜になってきた。
 ―「そろそろ東京に戻ろう。」
 カフェレストランを出た。
 メールによると、「歌い手」の知人達は電車ですでに無事東京に戻ったようだ。あの交通事故でせっかくの日曜日を無駄にさせてしまった。
 事故があったとき車中で盛り上がっていた歌は、人間を「名づけられた葉」に例える。葉っぱは何千枚あっても所詮葉っぱだが人間はその何千人それぞれに名があるのだから誰の真似もせず個性的に「せいいっぱい」自分の人生を輝かせましょうという。
 「あつい血の樹液をもつ人間の歴史の幹から分かれた小枝」
 と表現して脈々とうけつがれてきた人間の生命を讃える。
 しかしその「生命史の偉大さ」と比べると名があろうとなかろうとその末端の個人はちっぽけな存在だからこだわることはないともいえそうである。
 逆にポプラの葉にしても、名がないとはいえ、それらが風にも負けずけなげに生きるべきだという人がいてもおかしくない。
 結局「固有の名がある」ことと、だから「一生けん命生きるべきだ」ということとは関連はない。
 東洋では、逆に、名によって生起しているにすぎないすべての存在に実体はないのだとして物や対象さらには自分の実在性すら否定するものもある。
 これはまかり間違うとニヒリズムの弊害にもなるわけだが、名前が逆にマイナスにイメージされていることは間違いない。
 では、「せいいっぱい」生きなければならないのはなぜか。それはこの歌でいえば、脈々たる貴重な生命をうけついだものとしての責務だからであろうし、ほかにも色々理由は考えられると思う。


 「難しく考えすぎた。素直に歌えと叱られる…。」
 車は、首都高を降り、国道二四六号に入り郵便局を左に曲がった。日曜の夜ともなると閑散としている。
 「検事正」が退任後開設した法律事務所のあったところも近い。
 ラジオをFMにすると美しい三声のチェンバロにかわった。厳格な様式や和声学に則った楽匠の技巧が古典、近現代を経た今もそれらの追随を許さず、教会音楽すら普遍芸術の高みで語られるというパラドクス。声部ごとに独立した六曲が同時に進行してゆく六声の作品に至っては、これを一人で弾くとき、「神はいない」とは言ったがやはり神技だ。
 「彼の事務所開きに呼んでもらった…。」
 その事務所は、ヒマラヤ杉に囲まれた、都心とは思えぬ閑静な一角であった。
 退官の報に接してからすぐのころのことだったが、私の事務所に不在時に掛かってきた名に、「ひょっとしたら」と、その二回目の電話を奪うようにして取ると、「検事正」からだった。
 こうして胡蝶ラン華やかな事務所開きに伺うと、ご一家で歓待して下さった。
 しかし開口、「なぜ総長室に来なかったのか。」と叱られた。
 そういえば退官直前の御身内の葬儀にも行かなかった。
 新聞の訃報の扱い方の詳細さ、大きさからみてあらかた察しがついたが、やはり数日後、特捜門下の検事の錚々たる面々による結束を誓う場と化したかのその「一家葬」を賛美する記事が出た。
 私のこれらの不義理に対するご不満の訳がようやくのみ込めて来たのは大分後だ。
 歌の上手い大阪の盟友がヒマラヤ杉の事務所に表敬にやってきて夕刻となり、検察の東西の雄揃い踏みで赤坂での歌合戦に相伴の折、「検事正」が私を「ポン友」と紹介していた。
 親子の年の差や分際など外的なものではない何かをみようとした人だったのではないか。今となっては確かめるすべもないか。
 認証官達の自信満々のよく通る声を聴かされ、最低点を連発する私の歌を「今度こそは八〇点だ」などとほめてくれたのが懐かしい思い出だ…。


 開設された法律事務所であのころのように指導に再びあずかれることとなったのは幸運という他ない。
 何より一緒に実戦に臨める。
 先ず、「(もっと)新聞を読め」と言われて二、三社の人を差し向けられて契約した。
 実際その弁護士業は毎日全国紙をフォローしていないと話について行けなかったが、彼が現役のころは捜査の端緒として常に各社の新聞その他の分析に余念がなかったことをも窺わせる。想像以上だ。
 記者には彼のファンが多い。「戦後最大の疑獄事件」の主任検事であったときのその番記者達が中心だろう。
 友人からテレビでこの大事件についての検証番組をやっていたと聞いた。結構なことだ。新資料も出たらしい。
 そういえばかつて、「検事正」からヒマラヤ杉の事務所で、どこかに一緒につかえる資料置き場を手配するよう言われてそうしたが、共用は遠慮した。「墓場までもってゆく。」といわれる事実に近づくつもりはなかった。
 そのようなものが世に出ることは今後もあるまい。
 友人は、この主任検事が大物の家を夜門前まで訪れてそのまま帰ってしまうというシーンが何のためのものかわからないと言っていた。
 「好奇心ではないか。」と彼に言った。日ごろからの好奇心は事実認定力を養う。
 「検事正」のそれには私欲や雑念がない。例えば大きい家を見て、ただ「大きい」と思うだけで、「自分も欲しい」とは考えない。だから損得づくの商人や業者にはなり切れないと思う。
 かつて法律事務所で、茶飲み話しをしているとき、
 「関西でひと山全部を家にしている人がいる。面白い。見てこい。」
 と彼から言われた。
 もちろん行ったのはよいが、迎える方は、後続の私に対して、
 「お客のため窓拭き業者雇うだけでもナンボかかると思うてますねん。」
 と校舎のような数の窓を指しながら言い、
 「まあ金看板ショウてはる大先生の弟子のショカツ孔明はんやからシャアないやけど。」
 と言われた。
 わたしのように「私欲」があるとこうなるわけだ。
 関西にもファンが多かった。
 彼は自分のこととなると、およそ大邸宅や別荘といった執着は皆無である。
 あの大疑獄事件のころ、主任検事の生活にも密着していた記者が、彼の虚飾のない官舎や自宅、平素の暮らしぶりに心を動かされなかったはずがない。
 一方で、自分で地検の外に出てきて取材陣規制のロープ張りを始めて記者の裏をかこうとしたり、単純に大きいものなどに興味を示したりする子供じみたふるまいが時々あるところに意外性の妙があり、それがたまらないのである。
 私は法律以外でも多くを学んだ。
 検察に脈々と伝わる天風哲学。
 大病をヨガと瞑想で克服した天風だが、「死んで生きる。」といった禅の影響が強くうかがわれる。その門人達も同様だ。


 夜遅く自宅に戻った。
 その数日後、仕事で再びこの東京近県に赴いた。
 「検事正」のいた検察庁では、今私の倅が偶然司法修習中だ。
 当時世話をしてくれた立会検察事務官も捜査官として健在と聞き、仕事が早く終わったのでその検察庁にあいさつに伺った。
 昼時であり、捜査官が、大きな机を後にして、
 「まだあの店ありますよ。」
 と誘ってくれた。
 廊下で倅と合流し、玄関まで歩きながら、途中、ここは当時何課だった、などとあれこれ話をした。
 検事正室は三〇年以上もたつのに全くそのままであった。
 「こうして前を通るだけでも部屋の主の気迫がピンと伝わってきたものだ。ほとんど忍び足だった…。」
 今や自分が厚かましくなったのか、くすんだ壁や暗い電灯が寂しげだ。
 捜査官も、「廊下でスレ違うときは壁に貼りつきました。」という。
 私も同意して、「一緒に特捜部に行ったときは凄かった。」などと脈絡もなく威勢のいい場所を持ち出した。
 表に出ると、陽光がまぶしい。一転開放的になった。新庁舎ができれば間もなく取り壊しだ。古すぎる。早くやればいい…。
 「あの店」というのは、すぐ大通りの向かいの喫茶店を兼ねた食堂だ。カウンターはいつも法曹の常連に占拠されている。
 捜査官は、女将に「何期の誰々が修習中の息子と来た。」と我々を指して話を向けてくれたが、もちろん顔を覚えてもらってはいないし、私も年をとったからなおさらである。
 席を立って、向こうの壁に掲げてある歴代修習生の色紙をたどってみた。
 しかし何十枚もの中で、コーヒー色になった最も古いそれでも、我々より何期も若い人達のものであった。
 ところがそのとき女将が何か思い出したらしく、「あの期は確か。」と我々の期のことを言い出したので席に戻ったが、「次席に可愛がられた人がいた。」とポツリと言ってそのまま仕舞い支度に入った。
 次席は我々修習生とは全くノータッチだった。
 従ってこれは次席ではなく、「検事正」ということになる。女将は無関心かと思ったがそれなりに記憶をたぐりよせていたらしい。
 カウンターで捜査官に水を向けられて、女将はさらに覚えていることを淡々と口にした。その修習生は忙しくて店にほとんど来なかった、上が検事にするつもりなのか、その人にいろいろやらせようとしているのか、とにかくそのフォローで今年は自分たちの手間が掛かると世話役が愚痴っていたという。
 あのとき「現場を見てこい」と事もなげに言ってくれた「検事正」のはからいひとつとっても、その裏にいろいろな手間や取り巻く人々の面倒があった…。
 女将はそのまま腰が痛いと後をアルバイトに委せて奥へ引っ込んでしまった。捜査官も、彼女の「記憶力」(彼女の年令と修習の期が全く同じらしい。)に触発されたのか、席に戻ってきて当時のことを話してくれた。どうやら後任の検事正が面倒を見てくれたのも引き継ぎ事項に入っていたようだ。
 羽幡係長は、当時、あんな断り方をした私を、
 「面白い」と評した検事正の「気が知れない。」
 と捜査官に話をしていたという。
 しかし羽幡係長は腹に何もない人だ。羽幡係長がかつてあの地検から東京に赴任してきたときも、居酒屋で、
 「震えたぞ俺。一緒にやってんだったな。」
 と弁護士になった「検事正」へわたしの弁護士奉公を我が事のように喜んでくれた。
 「これまで人を良く言ったことが全くないのに、」
 と、からかい気味に日ごろから首をかしげていた倅も、父親のその唯一の例外的存在である「検事正」像がしだいに浮き彫りにされるにつれて黙ってしまった。
 もしかすると考えていた検事志望に迷いの出てきた我が身と比較しての沈黙でもあったのかもしれない。


 昼食を終えて、三人で店を出た。
 間もなく壊される庁舎。庭のポプラの木は、伐採がおわり、年輪を重ねた切り口をみせて数本横たわっている。
 ひときわ目立つあのポプラも、五つ六つに横切りされて、トラック数台の荷台にくくりつけられ、今まさに敷地を出るところだった。
 「物や体はなくなっても魂が生きつづけるとは、こういうことなのかな…。」
 わざわざ自分ごときが語らずとも、「検事正」の生き様と精神は歴史と人々に刻み込まれている。
 幹から枝葉へ脈々と。
 「先輩」や上司が彼に刻み込んだ精神も含めて脈々とだ。
 出世欲や処世、野心などがあってもなくても、結局は皆「世の中をよくしてゆこう」という熱い思いと正義感で「せいいっぱい」生き抜いた人達…、「人はなぜ一生けん命生きねばならぬのか」のお手本だ。
 かつて賢しらに思いをめぐらせたばかりに、心の琴線に触れつつ、「検事正」の意気に感じてその世界に飛びこむ潔さもなく来てしまった。年齢差や地位だ身分だなど、言い訳でしかない。私の断りを「面白い」と言ってくれたその禅機の妙に対して、百尺竿頭どころか登りもしなかった。
 「自分らしい葉っぱ」を咲かせようとしたわけでもあるまいに。そのくせ快く迎えてくれることに甘えている。検察を本当のところでは卒業していない中途半端さ…。
 横たわるポプラの枝にしがみつき緑から黄色にかわり心細げに揺れている名づけられていないその葉をぼんやり見ていた。


 捜査官は仕事に戻っていった。
 倅は別れ際に、あの運ばれている木は「プラタナス」だと言った。
 葉がポプラと違うらしい。
 さらに、このプラタナスならば「天才、好奇心」の象徴の木だから「検事正」にピッタリだ、とその書かれたネットも渡して見せてくれた。
 「それならポプラはどうなんだ。」受けとって見ると、ポプラは「愛惜」だった。
 「…やっぱり俺にはこのポプラの方がしっくりくるな。」
 そして道を渡り切って門に消えようとする倅の背中に、「ポプラということにしようや…。」と嘯いた。
 「それから…、あまり考えるな。」
 一塵の風がたちまちあのしがみついていた葉をふっ切るようにして宙に舞わせた。

(弁護士)

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  14. 相続税の申告業務(法苑189号)
  15. 人工知能は法律家を駆逐するか?(法苑189号)
  16. 土地家屋調査士会の業務と調査士会ADRの勧め(法苑189号)
  17. 「良い倒産」と「悪い倒産」(法苑188号)
  18. 民事訴訟の三本の矢(法苑188号)
  19. 那覇地方裁判所周辺のグルメ情報(法苑188号)
  20. 「契約自由の原則」雑感(法苑188号)
  21. 弁護士と委員会活動(法苑187号)
  22. 医療法改正に伴う医療機関の広告規制に関するアウトライン(法苑187号)
  23. 私の中のBangkok(法苑187号)
  24. 性能規定と建築基準法(法苑187号)
  25. 境界にまつわる話あれこれ(法苑186号)
  26. 弁護士の報酬を巡る紛争(法苑186号)
  27. 再び大学を卒業して(法苑186号)
  28. 遺言検索システムについて (法苑186号)
  29. 会派は弁護士のための生きた学校である(法苑185号)
  30. 釣りキチ弁護士の釣り連れ草(法苑185号)
  31. 最近の商業登記法令の改正による渉外商業登記実務への影響(法苑185号)
  32. 代言人寺村富榮と北洲舎(法苑185号)
  33. 次世代の用地職員への贈り物(法苑184号)
  34. 大学では今(法苑184号)
  35. これは必見!『否定と肯定』から何を学ぶ?(法苑184号)
  36. 正確でわかりやすい法律を国民に届けるために(法苑184号)
  37. 大阪地裁高裁味巡り(法苑183号)
  38. 仮想通貨あれこれ(法苑183号)
  39. 映画プロデューサー(法苑183号)
  40. 六法はフリックする時代に。(法苑183号)
  41. 執筆テーマは「自由」である。(法苑182号)
  42. 「どっちのコート?」(法苑182号)
  43. ポプラ?それとも…(法苑182号)
  44. 「厄年」からの肉体改造(法苑181号)
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  46. 司法修習と研究(法苑181号)
  47. 区画整理用語辞典、韓国憲法裁判所の大統領罷免決定時の韓国旅行(法苑181号)
  48. ペットの殺処分がゼロの国はあるのか(法苑180号)
  49. 料理番は楽し(法苑180号)
  50. ネット上の権利侵害の回復のこれまでと現在(法苑180号)
  51. 検事から弁護士へ― 一六年経って(法苑180号)
  52. マイナンバー雑感(法苑179号)
  53. 経験から得られる知恵(法苑179号)
  54. 弁護士・弁護士会の被災者支援―熊本地震に関して―(法苑179号)
  55. 司法試験の関連判例を学習することの意義(法苑179号)
  56. 「スポーツ文化」と法律家の果たす役割(法苑178号)
  57. 「あまのじゃく」雑考(法苑178号)
  58. 「裁判」という劇薬(法苑178号)
  59. 大学に戻って考えたこと(法苑178号)
  60. 生きがいを生み出す「社会システム化」の創新(法苑177号)
  61. 不惑のチャレンジ(法苑177号)
  62. タイ・世界遺産を訪ねて(法苑177号)
  63. 建築の品質確保と建築基準法(法苑177号)
  64. マイナンバー制度と税理士業務 (法苑176号)
  65. 夕べは秋と・・・(法苑176号)
  66. 家事調停への要望-調停委員の意識改革 (法苑176号)
  67. 「もしもピアノが弾けたなら」(法苑176号)
  68. 『江戸時代(揺籃期・明暦の大火前後)の幕府と江戸町民の葛藤』(法苑175号)
  69. 二度の心臓手術(法苑175号)
  70. 囲碁雑感(法苑175号)
  71. 法律学に学んだこと~大学時代の講義の思い出~(法苑175号)
  72. 四半世紀を超えた「渉外司法書士協会」(法苑174号)
  73. 国際人権条約と個人通報制度(法苑174号)
  74. 労働基準法第10章寄宿舎規定から ディーセント・ワークへの一考察(法苑174号)
  75. チーム・デンケン(法苑174号)
  76. 仕事帰りの居酒屋で思う。(健康が一番の財産)(法苑173号)
  77. 『フリー・シティズンシップ・クラス(Free Citizenship Class)について』(法苑173号)
  78. 法律という窓からのながめ(法苑173号)

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