一般2018年05月08日 次世代の用地職員への贈り物(法苑184号) 法苑 執筆者:中嶋靜夫

1 公共用地取得事務 五〇年の思い出
思えば、公共用地取得業務あるいはその周辺事務に従事して、五〇年になろうとしています。愛知県庁土木部名古屋土木事務所用地課を皮切りに本庁監理課用地係、知立土木事務所、本庁用地指導課、収用委員会事務局、本庁で二〇年間現場指導を行い、定年後は補償コンサルタント業(株)中部テックで損失補償現場の相談をお受けし、平成一三年から一期収用委員を拝命して貴重な経験をしてきました。
また、大場民男弁護士が編集代表をされている新日本法規出版の書籍(「問答式 用地取得・補償の法律実務」一九九一・四出版)の執筆のお手伝いを始めておよそ三〇年になります。この経験も私の公共用地取得一筋で過ごしてきた素晴らしい体験となっています。
私が補償基準の企画・指導担当になったのは一九七〇年代のことです。当時は地方自治体でも社会福祉の標榜が始まっていた頃で、シビルミニマムという言葉が盛んに言われていました。損失補償においては、相当補償説と完全補償説が対立した一九七三年の「倉吉都市計画」を巡って、最高裁で完全補償説が確立しています。
学説でも、華山謙東京工大教授による、ダム水没者の生活再建、起業地周辺に居住する人々への悪影響、事業施行による被害者と受益地の住民の格差などへの対応が問題提起されていました。高原賢治東京教育大教授による「小さな財産権」と「大きな財産権」の区分による損失補償の在り方への問題提起もありました。
その中でも、渡辺洋三東京大教授による主張は、損失補償は「人権としての財産」には財産権の補償に加えて生存権保障を取り入れた補償を行うべきであり、「人権でない財産」には純粋に財産価値のみ補償すればよいとした学説で、以後の私の小さな信条にも大きな影響を与えてくれたものでした。
この頃は、正に百家争鳴のごとくいろいろな学者や実務者から個性豊かな主張があり、それらの著作を懸命に勉強したことを懐かしく思い出しています。
この他にも用地職員として担当した事案は、いろいろ思い出されます。特に、私がこれほど長く用地取得という同一事務を担当した要因の一つである、愛知県刈谷市に立地した「境川流域下水道」の収用事件は印象深く残っております。私は、この事務に一〇年間従事しました。当時は、反権力闘争ともいわれた「成田空港三里塚収用事件」の余韻が続いていたころで、その前にあった「松原・下筌ダム収用事件」と共に、三大収用事件の一つとも言われていた事件でした。
土地所有者の団体、刈谷市民、名古屋市職員などからなる反対三団体を相手に、任意交渉、収用法適用、最後には反対三団体による団結小屋の撤去に機動隊による一〇〇余名の強制排除などの行政代執行事務がありました。そして、一九八一年に収用裁決取消訴訟が提起されて以降は、一九九三年二月に名古屋地裁判決勝訴、二〇〇二年四月最高裁勝訴まで続きました(そういえば収用裁決申請を行ったときは、大場民男先生が収用委員に就任されていました。)。
この時、土地所有者の反対理由は主に二つありました。一つは、終末処理場の位置が地元の意向も聞かず、当時の選良たちの思惑で決められたこと。その二は、この事業予定地は第二次世界大戦後の食糧増産のために干拓地を埋め立てした造成土地で、事業決定された頃までに海水の塩抜きなどが行われてようやく収穫が上がってきた美田で、自分たち居住地の至近距離にあり、正に生業そのものであることを挙げていました。
2 用地取得担当職員の職務
公共事業は、基本的には事業に必要な土地の取得から始まります。もちろん、その構想・企画段階では地域社会の共同参画があって公共事業は行われるのですが、用地取得をされて生活の本拠地を移転しなければならない者、生業の基本である農地などの買収により生業の変更をしなければならない者等は、いわば一種の「犠牲者」と捉えることもできます。このような人々の言い分を丁寧に聞き、移転後の生活再建の方策の相談に乗りながら、用地取得の必要性を納得してもらう。これを遂行する用地取得担当者の作業は、大変な労苦を伴います。
もともとこれらの人々の日常生活なり生業を全て金銭に換算して金額を提示し、納得を得ることが用地取得の作業で、資本主義の世界では仕方がないことではありましょうが、正に「夜討ち朝駆け」で当事者の全人格をかけたものとなります。
3 用地取得を困難にしている一般社会に存在する制度の仕組み
用地職員に求められる資質は、これだけではありません。一般社会には、土地所有の仕方にもいろいろな法制度や地域の仕組みが存在していますので、これらを丁寧に解きほぐしていかなければなりません。
例えば、「ため池を歩道設置のために少し用地買収する」とします。ため池が存する地域は歩道設置事業には大賛成ですが、ため池の所有者は、その設置は下流部の灌漑用のもので、その所有の形態も様々(単独所有、ため池の受益者全員の共有、受益地の地域の所有、地方公共団体所有、受益地の所有者の総有など)であったりしますので、この説得作業は多くの時間と労力を要することになります。これらの所有を示す不動産登記記録も共有総代、部落有、多数人名義など、多種多様です。
また墓地の場合も、古い施設であれば墓地管理者がないままの地域の総有であったり、町村合併前のある地域に居住している者のみに墓地使用を認めていたりする場合があったりします。
名古屋の周辺では、第二次世界大戦で被災した人たちが河川の堤防敷地を利用して(いわば無断占用)家を築造して居住しているケースがあちらこちらにみられますが、これらの者に対してどのような損失補償が行い得るのか、誠に難問というべきです。
最近では、日本に居住して長い年月を重ねた後、亡くなる外国人土地所有者の相続問題に遭遇することがあります。また外国へ移住する日本人が増加していますが、このような方々への用地交渉を行うには、まず住所から見つけなければなりません。また、居住先は見つかったものの、用地取得契約の方法、はたまた代金の支払い方法、租税特別措置法上の取扱いはどうするのかなど、解決すべき問題がいくつもあります。
このような事例に遭遇した用地取得担当は、正に途方に暮れてしまいます。こうした事例は、過去に担当した「職員の知恵」として残っていますが、残念ながらこれらを収録した図書はほとんどなく、埋もれてしまっています。つまり、公共用地取得の現場に、「過去の経験(知恵)」がなかなか生かされていないのが実情です。
最近は、職員も担当する事務が三〜五年程度で変わることが多くなっていますし、行政機関のスリム化や経験豊富
な団塊の世代の大量定年などもあり、公共用地取得担当職員数の減少もこれらの実情の悪化に拍車をかけているように思われます。このため、せっかく関係法規の勉強や制度の理解をして事案処理を蓄積をしても、その蓄積が次に生かされようがないことになってしまいます。
4 発刊の喜び
そのような中、二〇一七年五月に用地取得実務をテーマにした本を編集し、出版しました(「困難事例にみる 用地取得・損失補償の実務」新日本法規出版)。私にとって、人生の掉尾を飾る快挙でした。齢八〇歳にして、私の名前を冠した本が出版されましたことを心から喜んでいます。
先ずは、新日本法規出版(株)の関係者の皆様にお礼を申し上げます。二〇一五年の暮れでしたか、この図書の構想についてお聞きし、編集・執筆の協力を依頼されました。素敵な企画であり、協力は惜しまないことを約束しました。
その後、執筆者の人選と執筆協力依頼、過去の実務経験で一筋縄ではいかなかった困難事例のリストアップに着手し、二〇一六年六月に執筆者を集めての編集会議を経て、いよいよ執筆が始まりました。執筆者は、私を含めて用地職員のOB五名、現役の用地職員五名の計一〇名で、用地職員のベテランがそれぞれの経験を改めて整理し、原稿を執筆していきました。原稿は、同年一〇月が締切期限でした。
各執筆者から提出された原稿の校正は、まずは私が一次校正、ついで出版社の校正担当へ依頼し、概ね締め切り期限には原稿がまとまりました。この校正段階で、新日本法規出版の校正担当のその緻密で行き届いた校正に驚嘆したのを思い出しています。印刷用の確認原稿(ゲラ刷り)が私の手元に届いたのは、二〇一七年二月中旬、その校閲締め切りは三月中旬という予定でした。
ところが、ここでアクシデントが発生しました。私が三月初めに肺炎を患ってしまったのです。治療のため二か月間入院してしまい、出版社の担当者と共同執筆者の佐藤弘俊さんに病院まで校閲の打ち合わせに来ていただき、ご迷惑をお掛けしました。今思いますと、私は肺炎の苦しさを、校閲作業を行うことで紛らし、結果的には救われました。改めてお許しをいただきたいと思います。
そして五月に無事出版することができ、本の出来あいの良さとその重さに感激でした。
私が用地取得の現場で様々な経験をしてきたように、次世代の用地職員にも難しい局面が訪れることがあるでしょう。この拙著が、日々用地取得の現場で苦労している用地職員のほんの少しでも手助けになり、その公共事業が一日も早く完成することができれば、こんな嬉しいことはありません。
(総合補償士)
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