一般2017年05月08日 「現場仕事」の思い出(法苑181号) 法苑 執筆者:田中敦
一 はじめに
先日、日照被害等を理由に、隣地にアパートを建てた施主と住宅メーカーを訴え、敗訴した控訴人の控訴理由書に、「日照被害の事件にもかかわらず現場を見に来ていない」と原審を批判する内容があった。そのとき突然、プルーストの小説『失われた時を求めて』の主人公が、紅茶に浸したマドレーヌの味から、ふと幼時に過ごした土地と叔母のことを思い出す場面(小説の象徴的な一場面とされる。)のように、これまでの約三五年間にわたる裁判官生活で体験した「現場仕事」の思い出が次々と浮かんできた。本稿は、これらをまとめた「想い出の記」である。
二 「現場仕事」あれこれ
こうして思い出された「現場仕事」のうち、特に印象に残るものを任地ごとに取り上げてみたい。なお、記憶によっているので、不正確な点がある一方、あえて事実の一部をぼかしたことをお許し願いたい。
1 高知地裁
初任明けで、種々の事件を初めて担当した。最も印象に残っているのは、着任後数か月で担当した、建物建築をめぐる隣人間の日照仮処分事件である。審尋で一応心証を持ったものの、現場が裁判所の近所であったため、事実上見ておこうと思い、現地に行ったところ、たまたま庭に出ていた当事者に出くわし、挨拶をされてしまった。そのときのバツの悪さは、今でも鮮明に覚えている。この事件は、決定に至った(昭和五九年九月一〇日決定・判タ五五九号二〇七頁)。起案の苦労も思い出深かった。
もう一つは、県最西端の宿毛市で海藻のヒトエグサ(アオサノリともいう)が、河口に建設された処理場の稼働によって収穫できなくなったとして、宿毛市を訴えた事件である。当時は、中村(現四万十市)・宿毛間の約二十数キロの国鉄線(現土佐くろしお鉄道)が未完成であり、中村支部の庁用車で、現場に向かった。高知・中村間の距離は、高知・高松間を上回る。初めて西に広がる海を見るとともに、高知県の東西海岸線がいかに長いか(約三百キロ)を実感した。この事件も判決に至った(平成元年一月二三日判決・判例地方自治六八号五五頁)。
2 名古屋高裁金沢支部
石川、富山及び福井の北陸三県が管轄である。それぞれ独特の事件があった。
最初に、自衛隊小松基地騒音訴訟控訴審の現場検証を挙げたい。七月下旬の炎天下の石川県小松市内を、多くの当事者や関係人と共に二日間かけて、公共施設や防音工事の実施された住居合計十数か所を見分したり、上空を飛来する自衛隊機を見上げ、騒音を測定した。判決起案と共に、最も思い出の深い事件である(平成六年一二月二六日判決・判タ八八六号一一四頁)。
富山県では、宇奈月温泉の家屋明渡事件につき、公民館で証人尋問を行った後、当該家屋を事実上見分した。ここは、宇奈月温泉事件(大審院昭和一〇年一〇月五日判決・民集一四巻一九六五頁)の地である。利用可能な土地が少なく、こうした訴訟が起きるのも無理もないと思われた。五月の連休明けの新緑は鮮やかであったが、立山連山には雪が残り、公民館の裏手に残雪が少しあった。これが、金沢勤務で初めて見た雪であった。また、富山市の西方に所在し、元は越中の中心であった高岡市中心の商店街の土地争いでは、建物の間口が狭い一方、奥行きが非常にあり、しかも、何度も増改築を重ね、屋根には雪を落とすための庇が長く張り出していたため、現場を見ても、土地の境界を判定することが非常に難しかった。
福井県では、山林の境界争いにおける検証が忘れられない。秋であった。マムシが出るかもということで、やや開けた草原をゴム長靴で恐る恐る歩いていると、後方で「出た!」の声。見ると、事件当事者が、先端に鉤の付いた棒でマムシを巧みに捕まえて背負の竹籠に入れている。続いて、「もう一匹おるはずや!」の声がしたと思ったら、早くも二匹目が、竹籠の中に入れられていた。どうやら、その当事者は、マムシ出没を予想し、出たら捕まえようと準備していたらしい。検証終了後、満足げに山を下りていく姿が鮮烈に印象に残った。後にも先にも検証現場でマムシに出会ったのは、このときだけである。
3 東京地裁
伊豆大島の、とある港のコンクリート岸壁の検証があった。ある学校で起きた学校事故で、発生当時及び提訴時、社会的に耳目を集めた事件であった。発生現場を見分したが、どこまでも青く広がる海を背景に、海面から相当高い場所で行った検証は、怖さもあった一方で、ここで事件が起きたということを痛感させ、厳粛な印象が残った。
4 大阪地裁
建築・調停部では、建築や土地の調停を中心に、月に一、二度は現場に出かけていた。部内では、「今日も外回りです。枚方市です。」などの会話が頻繁に交わされていた。
建築瑕疵が問題になる事件は、布で拭えばすぐに取れる室内の小さなシミまでも、施工上の瑕疵であるとして、何年間も放置する等、当事者の執念を実感する事件がある一方で、同行した建築士調停委員が、「今時こんな瑕疵が!」と嘆息する瑕疵もあった。中でも、芦屋市内のとある豪邸の建築訴訟が思い出深い。ある飲食チェーン会長の個人宅であったが、付調停段階で見分し、不調後に訴訟に移行した段階で、改めて進行協議で見分した。施主の指摘する瑕疵は、千個を優に超えていた。大きな建物であったが、人ひと気けはほとんどなかった。この事件は、判決で終局したが、別表を除く本文だけで約五百五十頁の大部の判決になった(平成一七年四月二六日判決・判タ一一九七号一八五頁)。また、大阪府の南東端の河南町の住宅の建築調停事件では、是非(に)との本人の希望を容れ、想定外であったが、何気ない風をして、革靴で雨上がりの屋根に登った。瓦が滑りやすく、「転落したら労災もの」と思った。屋根からふと眺めた葛城山系は、低い雲がたなびき、緑が鮮やかであった。
交通・労災部(当時)では、工場で事故現場や機械を数多く見分した。また、重度後遺障害の残る被害者の本人尋問の他、看護状況、家屋の改装状況等の見分のため、被害者宅を訪問した。ある家では、部屋の隅に、焼酎の空瓶が何本も転がっているのを見付け、介護の苦労や家庭の内情がしのばれ、いたたまれない気持ちになった。また、本人尋問と和解案提示後の本人説得のため自宅を二度訪れ、本人と話したことも一度だけある。この二件は、和解で解決した。原告本人や親権者の決断、原告代理人の説得とともに、現地に立ち会った相手方代理人の理解と協力による所が大きかったと思う。
三 「現場仕事」の功徳
こうして振り返ると、調停事件も含め、裁判官としては、結構「現場仕事」をしてきた方ではないだろうか。見分すると、百聞は一見に如かずとの言葉どおり、事案がわかるし、何よりも当事者の機微に接することもできる。何気なく見た庭の植木や花、木の実などに、季節感を感じたこともあった。
現場は、事件を担当した「縁」で訪れる場所であり、原則として再び訪れることはない。この一期一会の場での体験は、断片的であれ、今でも鮮明に蘇ってくる。しかも、これらが当時の年齢、勤務地、季節、土地や事件の性質と結び付き、まさに自分が、裁判官として、この土地で、この事件で、当事者に向き合っているという思いを実感させてくれた。
四 むすび
最近は、境界紛争等土地をめぐる事件が少なくなり、写真、DVD等の記録機器の性能も向上したため、「現場仕事」の必要性がある事件は、以前より相当減った。しかし、今でも、機会があれば、現場を訪れてみたいと考えている。
「失われた時を求めて」は、題名のとおり、過去を永遠に記録すべく、時間を濃密に描写する営為に満ち溢れている。プルーストのこの精緻を極めた記述と比べると、いかにも粗雑かつ稚拙な「想い出の記」であるが、所詮頭の造りの違いと達観した。経験談を文章で披露することは、恥ずかしさを伴うが、年の功に免じてお許し願えれば、この上ない幸せである。
(大阪高等裁判所判事)
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