農地2020年05月12日 畑に一番近い弁護士を目指す(法苑190号) 法苑 執筆者:岩崎紗矢佳

1.住宅街の畑
一五年ほど前「トマトの木の匂い」に救われたことがありました。まだ弁護士になる前で、東京郊外にある自宅から都心の会社に片道二時間の通勤をしていました。ある夏の夜、いつものように最寄り駅を降りて帰宅する途中、ふと、トマトの匂いがしました。実の匂いというより、木の匂いなのだと思います。「あ、トマトの匂いがする」と感じるとともに、ハッと正気に戻った覚えがあります。オーバーワークで心身ともに疲れ切っていた時期でした。当時の記憶は、それくらいしかありません。畑は人間を癒すのだと私は思っています。
2.農家での司法修習
話が変わりますが、私が過ごした時期の司法修習では、「自己開拓プログラム」なるものがありました。司法修習の実務修習配属先の三庁(裁判所・検察庁・弁護士会)にて申請が認められれば、法曹三者以外(行政庁や民間企業等)の受入先を自分で開拓して修習をさせてもらうものです。私の実務修習配属先は、縁もゆかりもない山形県でした。山形に暮らし始めて暫く経った頃、山形の地域ニュースは、毎日何かしら農業の話題を提供していることに気付きました。その話題というのは、山形のブランド米「つや姫」「はえぬき」の作付面積のこともあれば、子どもたちの沢庵漬け体験の様子、悪天候で収穫高が大幅に減りそうだと落胆する農家の声を届けるものもありました。ふと「農業というのは、人間の生活の基本なのだな。」と思い、私は弁護士として農業に関わろうと思いました。そして、自己開拓プログラムを申請して農業に携わりたいと考え、山形県内の農家に受け入れていただくことが決まりました。
受入先は決まったものの自己開拓プログラム申請書には、受入先がどのように法曹の業務に関係があるのかを記載しなければなりません。このとき、ぼやけていた弁護士と農業の関わりが見えてきました。当時は農業の六次産業化が始まった頃でした。農業(一次産業)の生産物を加工し(二次産業)販売する(三次産業)ことで一×二×三=六次産業になるのです。六次産業化すると、農産物を生産して農協等に出荷するだけでは携わらなかった手続や作業、それに伴う様々な契約等が発生します。中小事業者としての農家には弁護士による支援が必要になります。また、一次産業における女性の人権についても深く考える機会となりました。例外もあるとは思いますが、平成の終わり頃においても地方の農村部での女性の地位というのは必ずしも高いものではなく、女性が一人の農業主体として認められるのは難しいという雰囲気は否めませんでした。多くは「〇〇家の娘」「〇〇家の嫁」というのが農家の女性に対する視線でした。人権擁護という点でも弁護士の必要性がありました。他にもいくつかの関わりを指摘し、私は、農業は法曹の業務に十分に関わりがあるもの(あるべきもの)と確固たる自信を持ち受入先として農家を申請しました。同時期に申請を出した他の修習生より遅く、許可の知らせがあったと記憶しています。前代未聞の農家での司法修習が決まりました。山形の三庁にご理解いただけたことを今でもとても嬉しく思っています。
3.畑に一番近い弁護士
受入先の農家で過ごしたのは二週間弱でしたが、「収穫体験」では分からない畑の後片付けや出荷作業、収入に至るまでの長く不安定な道のりなど、農家・農業の実態を見ることができました。農作業は体力的に非常にきつかったですが、終わったあとの心地よい疲労感と充実感はこの上ありません。それ以来、私の趣味は農作業、農業ボランティア(援農)となり、今でも連休には地方へ、週末には都内へ農家のお手伝いにお邪魔します。お手伝いに行って職業が「弁護士」だと明らかになると怪訝な顔をされることもあります。しかし、一日中泥だらけになって、ときにはアブラムシまみれになって黙々と農作業をしていると「弁護士さんのイメージが変わったよ」と仰って下さることも多いです。そのような中で、農業団体等でのセミナーをご依頼いただくことが出てきました。セミナー後に受講者の農家から名刺交換を求められ「うちにボランティアに来てください。」と言われたこともありました。先日は、商標に関するセミナーの受講者から「『援農弁護士』で商標登録した方が良いんじゃないですか?」とも言われました。多くの農業関係者に囲まれながら、日々、畑に一番近い弁護士を目指して奮闘中です。
4.都市農業・農地の現状
東京都では、若年層を中心に非農家出身で農業をやりたい、農地を借りたいという人が続々と現れています。そういった農業を事業・職業と捉える新規就農者を中心にちょっとした農地争奪戦が起きています。
都市農業では「生産緑地二〇二二年問題」と呼ばれる問題があります。都市圏の住宅地(市街化区域)の農地は、生産緑地に指定されないと農地であっても固定資産税が宅地並み課税となる仕組みが採られています。
一九九一年の生産緑地法改正に伴い、一九九二年に市街化区域内の農地について生産緑地の指定を受け固定資産税の軽減を受けるか、受けないで(いわゆる)宅地化農地として宅地並み課税のまま農業を続けるかの選択を迫られました。生産緑地に指定されると、原則として三〇年間農地を宅地等に転用することができません(例外的に農業の主たる従事者が死亡等をした場合には転用できます。)。
生産緑地に指定されると、例えば所有者が「農地を宅地にして賃貸アパートを建て賃料収入で生活しよう」ということができません。また、農地を農地のまま貸したいと考える場合に、貸すとその農地について農業の主たる従事者が貸主(所有者)から借主に変わり、農地の所有者が死亡した場合にも転用できない(相続税の納税資金確保のため農地を宅地にして売却することができない。)という問題などがありました。その他にも、従前は、市街化区域内の農地を貸す方法として農地法しかなく、農地法を根拠に農地を賃貸借すると法定更新と解除制限が適用され、事実上、農地が長期間返還されない事態が生じます。これを農地の所有者が嫌がり、事実上農地を貸せない大きな原因と言われてきました。
一九九二年から三〇年が経過する二〇二二年には生産緑地を宅地に転用することができるようになります。農業者の高齢化、後継者不在という現状があるため、二〇二二年以降、農地の宅地転用が進み市街化区域内の農地が激減するのではないかとの懸念があります。これが生産緑地二〇二二年問題の一つです。この問題に対応するため、二〇一八年九月に都市農地の貸借の円滑化に関する法律が施行され、農地(生産緑地)を貸せないという問題が大幅に改善され、生産緑地を貸しても、一定の要件の下、貸主(所有者)が死亡したときには農地を転用できることになりました(ただし農地の借主との契約解除が必要になります)。また、この法律による貸借は更新のないものであり、いわば農地版定期借地となります。
5.農業のインキュベーション施設
二〇一九年三月に都市農地貸借円滑化法を利用して生産緑地を借りた初めての新規就農者が誕生しました。その新規就農者が東京大学を卒業した二〇代の女性とのことでメディアでも大きく取り上げられました。貸借契約の期間は三〇年だそうです。
私は、貸しても数年程度の定められた期間で農地が返還されること、生産緑地の転用制限期間の三〇年を待たずとも所有者が死亡すれば生産緑地を宅地へ転用できることがメリットとされる法律を利用したのに、なぜ三〇年間の貸借なのか、と疑問に思っていました。
先日、その貸主の方がシンポジウムの場でお話されているのを聞きました。「私は、もう高齢で自分が農作業をすることが難しくなってきた。これからは借主さんがやっていく農業を見守るのが私の楽しみだ。私は、この農地の貸借契約が終わる三〇年後を見ることはできないかもしれない。しかし、三〇年後、今回お貸しした農地は農業のインキュベーション施設として農業に貢献しているはずだ。」という趣旨のことを仰っていました。
「農業のインキュベーション施設」という発想に鳥肌が立ちました。大袈裟かもしれませんが、時代が変わる瞬間を見たと思いました。農業を事業・職業として捉える若者に対して、農業は家業・農地は家産と捉えられていた時代を生きてきた先輩が、農地をインキュベーション施設として貸す。農業の大きな変革期です。
6.おわりに
先日、久しぶりに冒頭のトマト畑の近くを通りがかりました。冒頭の畑は、まだ畑でした。生産緑地のようです。しかし、その周辺にあった畑は軒並み住宅になっていました。それぞれの事情はありますが、住宅街の畑が一つでも多く残って、一人でも多くの人を癒してほしいと私は思っています。私も、畑に一番近い弁護士として都市の農地・農業を守る役割を果たしたいと思っています。
(弁護士)
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