一般2022年01月11日 「キャリア権」法制化の提言~日本のより良き未来のために(法苑195号) 法苑 執筆者:髙井伸夫

◎はじめに
弁護士になって六〇年近くが経った。
私は、一九六三年から、使用者側の立場で人事・労務問題を専門に弁護士活動をしてきたが、ご承知のとおり往年の激しい労使対決の構図は下火となり、最近では個々の労働者への対応に重きが置かれている。これは、日本の社会が成熟し、多様性が重視されるようになった時代の流れの反映でもあるだろう。さらには、後述のとおり日本は貧しくなっているために、国民同士、労働者同士の葛藤のほうが激しくなっているという面もあるだろう。
顧客からさまざまな相談を受けるなかで、私が常に抱いていたテーマのひとつは、労使の健全な共存共栄の実現である。個々の従業員の能力を真に高め、働く喜びを感じながら自律的に成長できる環境を整え、同時に組織全体としても業績を向上させる好循環を生み出す良い方策はないだろうか?という素朴で基本的な問題意識である。
労働法理論の根本は、従業員がいかに生産性高く人間的に個々の能力を発揮できるかを目指すものであり、競争場裡において社会の進歩を促すには、「人間を活かす」という視点がなければならない。つまり、企業組織としては、従業員を主体的な存在として尊重し、機能させていく必要がある。使用者の組織法的な視点を肯定すると同時に、個々の従業員の能力も高める仕組みを構築するのは、まさに「協調的解決」と「競争的解決」をともに尊重し両立させ、より高みを目指すヘーゲル哲学的な発想であるともいえよう。
このような長年にわたるテーマを抱き続けていた折、二〇〇七年七月に、諏訪康雄先生(当時法政大学教授。元中央労働委員会会長・現法政大学名誉教授)とのお久しぶりの懇談のなかで、諏訪先生がふと話題にされた「キャリア権」という言葉を初めてお聞きし、ご教授いただいたときの印象は、鮮烈なものであった。これは、私が専門とする「働くこと」にとって極めて重要な考え方であり、労使の共存共栄の実現に資するキーワードだと直感した瞬間であった。
◎キャリア権について
諏訪康雄先生は、キャリア権概念の提唱者である。諏訪先生が日本で初めて「キャリア権」についての論文を刊行物に書かれたのは「キャリア権の構想をめぐる一試論」(『日本労働研究雑誌』一九九九年七月№四六八掲載)であると聞く(この論文は、独立行政法人労働政策研究・研修機構のホームページで論文タイトルを検索すれば入手できる)。
キャリア権は、諏訪先生による日本初・日本発の新しい法概念であって、理念としてのキャリア権は、「人びとが意欲、能力、適性に応じて希望する仕事を準備、選択、展開し、職業生活をつうじて幸福を追求する権利」と定義されている。キャリア権とは、要は、向上心をもって自律的に仕事の能力を高めるべく努力を重ねる者については、国としても、また、その者が属する組織としても配慮すべきであるという考え方であるといってよいだろう。また、諏訪先生は、産業革命前後から今日に至る職業生活の基軸の歴史的な変遷を、次のようなキーワードで説かれている。すなわち、「職業・職務は財産(Job is property)」の時代→「雇用は財産(Employment is property)」の時代→「キャリア(職業経歴)は財産(Career is property)」の時代へと。平易にいえば、これからは「履歴書」「職務経歴書」の内容と質が、その人の重要な資産となるということなのだ。
キャリア権については、諏訪先生以外の労働法の有力な学者の先生方も、各ご著書等で言及されている。たとえば、菅野和夫先生『労働法 第12版』弘文堂(二九頁ほか)、荒木尚志先生『労働法 第4版』有斐閣(七九三頁ほか)、野川忍先生『労働法』日本評論社(七七七頁)、水町勇一郎先生『詳解 労働法 第2版』東京大学出版会(一三〇四頁ほか)、大内伸哉先生『人事労働法』弘文堂(一三〇頁)等多数、両角道代先生『講座労働法の再生』(日本労働法学会編)日本評論社/第四巻「人格・平等・家族責任」九五頁 第四章「キャリア権の意義」など、参照されたい。
なお、政界で私が初めて「キャリア権」についてご説明したのは、まずは前衆議院議長 大島理森先生(二〇二一年秋に政界引退)であった。二〇一一年一月、弊所にお越しくださった大島先生に新年のご挨拶をした折に、キャリア権の話題を申し上げたところ、先生は即座に「人事権との関係はどうなるのですか?」と指摘された(この出来事は、日本工業倶楽部の会員誌『会報』第二六七号〔二〇一九年一月発行〕掲載の拙稿「キャリア権の法制化を目指して」でも紹介した)。
大島先生が指摘された人事権とキャリア権との相克の問題は、キャリア権における大変重要なテーマである。これはまさに、前述の「協調的解決」と「競争的解決」をいかに両立させるかという問題でもある。この点、①人事権もキャリア権と同様に法律上の規定のない概念であること、②人事権は組織の収益力を増強すべくマンパワーの士気を高めると同時に生産性を高める使命を負っている以上、キャリア権を是認する方向で機能するのが当然であること等の理由により、人事権とキャリア権は両立し得る概念なのではないかというのが、現時点で私が導いた結論である。
◎キャリア権を法制化する意義
諏訪先生も予てより指摘されているとおり、企業・組織もそこで働く者も、男性も女性も、障碍があってもなくても、若者も中高年も、正社員も非正規社員も、そして個人事業主も、フリーランスも、それぞれの立場で労働生産性を高めると同時に仕事の成果の質を高め、収益力を強化しなければ、人口減少が急速に進む日本の将来は暗い。
日本は、天然資源にほとんど恵まれないため、社会資源の価値を高める以外に豊かさは得られない。社会資源には、物的な社会インフラ等である社会資本と、教育や労働力等の人の価値の総和としての人的資本がある。日本の人口は減少し続け、二〇二〇年国勢調査によれば、日本の総人口は五年前の前回調査からほぼ和歌山県の総人口に匹敵する約九五万人減少し、経済活動の主な担い手である一五~六四歳の生産年齢人口はピークであった一九九五年と比べて約一四%減少し、一四歳以下の人口は過去最少であったという。一〇〇年後には現在の約一億二〇〇〇万人の半分を大きく割り込むと推計されているのであるから、単純に考えても、人的資本の価値を二倍以上に引き上げる難事業を成し遂げなければ、日本は今の状態を維持することもままならない。新しい発想で気概をもってイノベーションを創出できる優秀な人材を、いかにして多く育てるか。個人としても組織としても生産性を向上させて人的資本の価値を高め、国としての豊かさを保つための重要な国の施策として、まさにキャリア権概念は位置づけられよう。
キャリア権は、まさに未来社会に向けての法概念である。キャリアこそが、その人の一生を豊かにする無形の資産である。優れた企業においては、人材の能力を高めることにより組織・企業としての収益力を向上させるべく、既に、企業内の能力開発が実践されていることだろう。最近では、キヤノン、日立製作所、富士通など、デジタル時代に則した社内でのリスキリング(新たに必要なスキルを習得する学び直し)に熱心に取り組む企業も少なくないと聞く。
しかし、変化のスピードが高まり世界規模の競争が激しくなるなかでは、組織・企業内の能力開発のみに頼っていては、人材も組織・企業も、変化と競争に対応できず淘汰される可能性がある。そのため、自律的に努力と勉強を重ねる向上心ある者については、学校教育、社会人教育、能力開発、技能の習得、就業支援等々の充実を、官庁の垣根を取り払い、国をあげて横断的に取り組む必要がある。こうした国の基本姿勢を示すのが、キャリア権の法制化にほかならないのである。
キャリア権は、まだ世の中で馴染みの薄い考え方であるが、政治家、官僚、経営者、教育者、それぞれの持場で働く人々、学生諸君等々、あらゆる方々に関心を寄せていただきたいと切に願っている。
◎キャリア権の普及活動
キャリア権を提唱された諏訪先生ご本人から、偶然にも直接教えをいただく貴重な機会に恵まれた私は、人材の価値を高める重要な方途のひとつとしてこの考えを社会に広めたいという使命感を抱き、社会貢献活動のひとつとして、キャリア権の普及活動に取り掛かった。当時、すでに人口減少局面に入っていた日本社会と次世代の未来のためにも、キャリア権概念によって新たな道筋を描けるのではないかという期待もあった。
最初の取り組みは、二〇〇八年四月に二年間の会期の予定で勉強会「キャリア権研究会」(座長‥諏訪康雄先生)を立ち上げ、一一年六月に報告書を発行した。一三年四月のNPO法人の設立時には、ささやかな経済的基盤のお手伝いもして、監事を務めた(任期満了で一八年六月退任)。
現在は、次の段階に進むべき時期であると強く感じている。すなわち、キャリア権についての現在の大きな目標は、経済産業省、厚生労働省、文部科学省、公正取引委員会など関係省庁の垣根を超えて、「キャリア権基本法」あるいは「キャリア基本法」というような法制化をなんとか実現したいということである。
ただ、新しい考え方は、限られたひと握りの人間が声高にその意義を叫んだとしても、世の中の共感を得られず、法制化の動きにもつながらない。
そこで、私は、二〇〇七年七月に諏訪先生から直々にご教授を受けて以降、現在に至るまで、自身の各方面での執筆や懇談の機会には、キャリア権の紹介に努めてきている。
多くの執筆活動以外にも、たとえば、二〇一七年三月には、NHK解説委員 竹田忠氏からのご依頼により、同局ラジオの夕方のニュース番組において「副業問題」の解説をした折に、キャリア権にもひとこと言及した。竹田氏によれば、このことが、同年一一月二三日(勤労感謝の日)の同局地上波放送「時論公論」での竹田氏による「働き方改革の未来とキャリア権」の解説につながったという。これは、日本のテレビ放送で初めて正面から「キャリア権」を取り上げたものである。うれしい出来事であった。
また、二〇一九年五月からは、「キャリア権」法制化を目指す会の代表者として、『週刊新潮』に《「キャリア権」法制化の意義》と題する意見広告をほぼ二か月おきに掲載する活動にも着手した。さらには、《「キャリア権」法制化を目指す会 紀要》の発行にもチャレンジして、二〇二〇年二月に第一号、同年九月に第二号、二〇二一年九月に第三号を発行し、紀要にはこれまでに延べ一〇一名のご寄稿者があった。これらはいずれも手弁当で続けている地道な活動である。
キャリア権に関連する最近の注目すべき裁判例には、昨年一月の名古屋高裁判決がある(「安藤運輸事件」名古屋高裁令和三・一・二〇判決『労働判例』一二四〇号五頁掲載。確定)。運送業の運行管理者の資格を持つ者が倉庫業務に配転された事案で、判決は、会社には運行管理者の資格を活かした業務に就くという労働者の期待への配慮が求められるとして、配転命令は権利濫用にあたり無効とした。高度な専門資格に限らず、より広い一般業務の専門資格についてもキャリアの維持・形成への期待を重視する司法判断が出たことは、画期的である。社会全体を健全に発展させるには、高度な専門職に限らず、現場で地道に働く人々のキャリア形成についても、正当に尊重する仕組みが極めて重要である。
そして、二〇二一年九月二六日発行『日経ヴェリタス』の二二面を見て、大変驚いた。「キャリア権と人事権両立の道」という大きな見出しが打たれ、まったく面識のない編集委員 水野裕司氏による署名記事が大々的に展開されていたのだ。私がこれまでコツコツとおこなってきた普及活動が、こうしたマスメディアの動きにも、あるいはいささかでも寄与しているのかもしれないと夢想するのは楽しいことであり、一種のやりがいを感じる。
◎「安い」といわれない国であるために
最近の経済誌等でよく見かける「安い日本」という表現は、私たちの気持ちを萎えさせる。しかし、かつて経済大国と称された日本が、いまではすっかり凋落して貧しくなったという厳しい現実を、直視しなければならない。平均賃金の面でもGDPの成長率の面でも、日本が主要国の後塵を拝していることをまず認めなければ、復活への道は始まらない。
多くの記事のなかで、「円安は国益に反する 産業の付加価値向上が必須」という見出しのもと(『週刊エコノミスト』二〇二一年一〇月五日号 二五頁)、論を展開されていた野口悠紀雄先生の「円安とは労働力の安売り」という言葉は、私の胸にズシリと響いた。長引くデフレや円安は、政府の経済政策の失敗や産業界の構造的な問題によるものだろう。しかし、もし日本の働く者一人ひとりが、キャリア権の考え方のもとに高い能力を身に付け、グローバル競争にも打ち勝つ人材が多く育っていたとしたら、国全体が現在のように落ち込むことはなく、「安い労働力」ではなかったかもしれない。優秀な人材は、日本にとどまらず海外に活躍の場を求めることもあるが、それはそれでよいことだろう。特にここ二〇年ほどの社会の変化は著しい。デジタル分野や新しいテクノロジーに関するおよその知見と英語力を身に付けていなければ、社会的に一定レベル以上の活躍をするのは難しい時代となっている。
そして、「キャリアは財産」「キャリアは資産」という言葉は、単に多くの報酬を得ることだけを意味するのではない。自分の力で築いた得意分野で生涯にわたって活躍すること自体が、ひとつの社会貢献でもあり、人生そのものを豊かにする方途でもあるのだ。
キャリア権の法制化が日本の未来に曙光をもたらすと信じて、今年も地道な活動を続けていきたい。そして、老骨にムチ打ちキャリア権の法制化をなんとしても実現し、若い世代の成長を見届けたいと思っている。
(弁護士)
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