カートの中身空

閲覧履歴

最近閲覧した商品

表示情報はありません

最近閲覧した記事

一般2019年05月10日 私の中のBangkok(法苑187号) 法苑 執筆者:尾島史賢

1 心躍る都市バンコク
 『人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと愛したことを思い出すヒトとにわかれる 私はきっと愛したことを思い出す』
 これは、一九七五年のバンコクを舞台にした辻仁成氏の小説「サヨナライツカ」に登場する詩の一節である。
 タイ王国は治安も良く、在留邦人も多いことから日本人には親しみやすい国である。首都バンコクは急激な都市化が進むものの、夕方になるとどこから現れるのか歩道を覆い尽くすように多くの屋台が軒を連ねる。暮れゆく街並みがまばゆい電球の光とパクチーの香りに包まれると、ノスタルジックな一九七五年のバンコクに連れ戻される。
 私が初めてこの国を訪れたのは一九九八年、司法試験の勉強に明け暮れていた大学三年次生であった。当時はBTS(高架鉄道)もなく、トゥクトゥクが犇めき合い、スコールに打たれるとあっという間に道路は冠水し、膝まで浸かりながら歩かねばならなかった。
 その後、二〇一三年三月、所属する弁護士会の会派旅行で一五年ぶりに訪れたバンコクは、目を疑うほど近代化していた。高層ビルや巨大なショッピングセンターが立ち並び、トゥクトゥクに代わって自動車がバンコク名物の交通渋滞を形成していた。その合間をバイクタクシーがジグザグと難なくすり抜けてゆく。それでも、路地裏にはまだ貧しい人々が慎ましく生活している様子が窺われ、急激な近代化の余波が感じ取られた。
 二〇一五年夏には弁護士交換派遣プロジェクト(後述)の視察、翌年二月にそのプロジェクトの派遣弁護士とともに派遣先法律事務所への挨拶、同年九月にはプロジェクトの進捗確認のために、六回目の今回(二〇一九年二月)はクライアントと打ち合わせをするためにバンコクを訪れた。約二年半ぶりにバンコクの地に降り立った私は、マンダリン・オリエンタル、バンコクに宿泊し、チャオプラヤー川を臨みながら朝食を摂った。
 ホテルのほとりを流れるチャオプラヤー川を隔てた向かいには、ICON SIAM(アイコン・サイアム)という日本の百貨店(高島屋)系列のショッピングセンターができていた。そこには、ホテルから船で渡ることができ、灼熱のバンコクにいながらも川から流れる風が心地よい。
 バンコクという街はいまだに成長を続けている。街中のいたるところで大規模な建物の建設工事やBTSの延伸工事が行われている。日本にいると感じてしまう停滞感は、ここバンコクではまったくなく、街全体から大きな躍動感を得ることができる。

2 サヨナライツカ
 小説の舞台は一九七五年のバンコク。親日国であるタイ王国には当時から多くの日本人が在留していた。主人公の東垣内豊(ひがしがいとうゆたか)もその一人であった。そして、もう一人の主人公 真中沓子(まなかとうこ)は、ザ・オリエンタル、バンコクというバンコク随一の高級ホテルのスイートルームに長期滞在している謎の女性である。この部屋はサマーセット・モームが滞在していたことから「サマーセットモームスイート」とも呼ばれていた。
 ある日、豊は、突然、豊の部屋に押しかけてきた沓子と関係を持ってしまう。
 そこから、二人は惹かれ合うようになるが、「愛している」という言葉を二人が口にすることはなかった。なぜなら、豊には結婚を間近に控えた婚約者光子がいたからであった。
 豊は、東京にいる光子との結婚に向けた準備を進めながらも、沓子との関係にのめりこんでいく。しかしそれでも、最後には、魅惑的ではあるものの、破天荒なきらいのある沓子ではなく、安定した将来のある家庭的な光子(光子は豊の勤務する航空会社の創業者に近しい家柄の娘であった)を選ぼうと思っていた。
 そんな豊が、沓子と光子の間で揺れ動き、最後には沓子を捨てて、光子を選ぶという三か月余りのバンコクでの出来事が描写されているのが第一部である。
 第一部では、一九七五年のバンコクの街を肩寄せ合い歩く二人、トゥクトゥクに乗って風を切る二人、アユタヤ遺跡に向かうため船に乗りゆっくりとチャオプラヤー川を渡る二人、二人の若さが小説の中から迸る。躍動感がありながらもどこかノスタルジックな情景は現在も残っていて、夕方になると突如現れるナイトマーケットや屋台を見ると、小説の中の二人が私の目に浮かぶのである。

3 弁護士交換派遣プロジェクト
 昨今、法科大学院の人気が低迷していることは新聞報道等からも明らかであり、法曹の魅力が低下しているといっても過言ではない(実際には法曹の魅力が国民にうまく伝わっていないだけだと思うが)。
 法科大学院も、それぞれ工夫を凝らし、その存続を図っている。
 私の勤務する関西大学法科大学院も同様に苦戦しているが、アジアに強い弁護士を育てるとのコンセプトのもと、カリキュラムを構成し、「アジア進出企業支援」や「海外エクスターンシップ」などの授業科目を設けている。前者は、アジア進出に関連のある金融機関や、アジア進出企業の担当者等が講義をする科目である。後者は、ベトナム社会主義共和国へ赴き、JICAによる法整備支援を体験する科目である。
 二〇一五年夏にバンコクを視察に訪れた我々法科大学院スタッフの目的は、派遣弁護士(当時、私が代表社員をしていた弁護士法人あしのは法律事務所の所属弁護士)を受け入れてくれるバンコクの法律事務所を探すことであった。
 バンコクでは、日本と異なり、弁護士でない者も法律事務所を経営することができるが(日本の弁護士は法廷で活躍するイメージだが、バンコクの弁護士はコンサルタントのような位置づけである)、法科大学院のプロジェクトとして弁護士を派遣する以上は、信用度の高い法律事務所を探したいと考え視察に赴いたのであった。
 幸いにも、タイ王国に進出している多くの日系企業の顧問をしている法律事務所と提携することができ、無事に約一年間弁護士を派遣することができた。このことが縁となり、バンコクでの知人も増え、法律相談を受ける機会も増えた。

4 ビジネスチャンス
 タイ王国は地理的にも東南アジアの真ん中に位置することから、陸海空の玄関口であり、まさに物流の拠点である。物価の高騰や人件費の高止まりでタイ王国の経済成長は鈍化していると言われているが、依然としてタイ王国の東南アジアにおける重要性は変わらず、日本にとってタイ王国が重要なパートナーであることもしばらくは変わらないであろう。そして、日本の大手四大法律事務所がタイ王国をはじめ、ミャンマーやラオス、カンボジアなど東南アジア諸国に海外オフィスを設置することも増えてきている。それだけ東南アジア諸国には無限のビジネスチャンスが眠っているということだろう。実際に、私のところにも、バンコク在住の日本人が法律相談に来られるなど、日本と東南アジア諸国との物理的な距離に比してビジネスでの距離感は飛躍的に縮まっているように感じられる。これからも、安心して母国のことを相談できる身近な弁護士であり続けたいと思っている。

5 さいごに
 小説「サヨナライツカ」の第二部では、バンコクでの沓子との別れから二五年が経過した後が描かれている。
 二人の子宝に恵まれた豊と光子であったが、豊は勤務する航空会社の専務に昇進していた。その豊がバンコクにおいて行われる自社の就航四〇周年記念式典に出席することになり、二五年ぶりに訪れるバンコクに豊の胸は高鳴っていた。豊は、沓子との別れの後、ヨーロッパを中心に駐在し、バンコクにはそれから足を踏み入れたことはなかった。豊が二五年ぶりに降り立ったバンコクの地は、豊と沓子が歩き回ったあの懐かしいバンコクから様変わりしていた。豊が宿泊先であるザ・オリエンタル、バンコクに到着すると、なんと、彼を出迎えたのは沓子であった。
 沓子は、豊と別れた後、東京にいったん戻ったが、再びバンコクに渡り、ザ・オリエンタル、バンコクでジャパニーズアカウント担当として働いていたのである。
 再会を果たした二人であったが、思い出話に花を咲かせるのみでそれ以上に二人の関係が発展することはなく、豊は帰国してしまう。
 帰国後、豊のもとへ沓子から手紙が届く・・・。
 沓子は、「死ぬとき、愛されたことを思い出すか、愛したことを思い出すか」と豊に問われ、「愛されたこと」を思い出すと答えたが、後にそれを撤回し、「愛したこと」を思い出すと考えを変える。沓子の気持ちにどのような変化が生じたのか、ぜひ小説を読んでもらいたい。
 豊と沓子が幾度となく食事をした、マンダリン・オリエンタル、バンコクにあるフレンチレストラン「ノルマンディー」で、チャオプラヤー川の悠久の流れを臨みながら、自分の人生を振り返ることができたらとても幸せなことである。それまでは自分の天職である弁護士を思う存分やり切るつもりだ。
 これからもきっと私の心を捉えて離さないであろう。心躍る都市バンコク。

(弁護士・関西大学法科大学院法務研究科教授)

人気記事

人気商品

法苑 全111記事

  1. 裁判官からみた「良い弁護士」(法苑200号)
  2. 「継続は力、一生勉強」 という言葉は、私の宝である(法苑200号)
  3. 増加する空き地・空き家の課題
     〜バランスよい不動産の利活用を目指して〜(法苑200号)
  4. 街の獣医師さん(法苑200号)
  5. 「法苑」と「不易流行」(法苑200号)
  6. 人口減少社会の到来を食い止める(法苑199号)
  7. 原子力損害賠償紛争解決センターの軌跡と我が使命(法苑199号)
  8. 環境カウンセラーの仕事(法苑199号)
  9. 東京再会一万五千日=山手線沿線定点撮影の記録=(法苑199号)
  10. 市長としての14年(法苑198号)
  11. 国際サッカー連盟の サッカー紛争解決室について ― FIFAのDRCについて ―(法苑198号)
  12. 昨今の自然災害に思う(法苑198号)
  13. 形式は事物に存在を与える〈Forma dat esse rei.〉(法苑198号)
  14. 若輩者の矜持(法苑197号)
  15. 事業承継における弁護士への期待の高まり(法苑197号)
  16. 大学では今─問われる学校法人のガバナンス(法苑197号)
  17. 和解についての雑感(法苑197号)
  18. ある失敗(法苑196号)
  19. デジタル奮戦記(法苑196号)
  20. ある税務相談の回答例(法苑196号)
  21. 「ユマニスム」について(法苑196号)
  22. 「キャリア権」法制化の提言~日本のより良き未来のために(法苑195号)
  23. YES!お姐様!(法苑195号)
  24. ハロウィンには「アケオメ」と言おう!(法苑195号)
  25. テレビのない生活(法苑195号)
  26. 仕事(法苑194号)
  27. デジタル化(主に押印廃止・対面規制の見直し)が許認可業務に与える影響(法苑194号)
  28. 新型コロナウイルスとワクチン予防接種(法苑194号)
  29. 男もつらいよ(法苑194号)
  30. すしと天ぷら(法苑193号)
  31. きみちゃんの像(法苑193号)
  32. 料理を注文するー意思決定支援ということ(法苑193号)
  33. 趣味って何なの?-手段の目的化(法苑193号)
  34. MS建造又は購入に伴う資金融資とその担保手法について(法苑192号)
  35. ぶどうから作られるお酒の話(法苑192号)
  36. 産業医…?(法苑192号)
  37. 音楽紀行(法苑192号)
  38. 吾輩はプラグマティストである。(法苑191号)
  39. 新型コロナウイルス感染症の渦中にて思うこと~流行直後の対応備忘録~(法苑191号)
  40. WEB会議システムを利用して(法苑191号)
  41. 交通事故に基づく損害賠償実務と民法、民事執行法、自賠責支払基準改正(法苑191号)
  42. 畑に一番近い弁護士を目指す(法苑190号)
  43. 親の子供いじめに対する様々な法的措置(法苑190号)
  44. 「高座」回顧録(法苑190号)
  45. 知って得する印紙税の豆知識(法苑189号)
  46. ベトナム(ハノイ)へ、32期同期会遠征!(法苑189号)
  47. 相続税の申告業務(法苑189号)
  48. 人工知能は法律家を駆逐するか?(法苑189号)
  49. 土地家屋調査士会の業務と調査士会ADRの勧め(法苑189号)
  50. 「良い倒産」と「悪い倒産」(法苑188号)
  51. 民事訴訟の三本の矢(法苑188号)
  52. 那覇地方裁判所周辺のグルメ情報(法苑188号)
  53. 「契約自由の原則」雑感(法苑188号)
  54. 弁護士と委員会活動(法苑187号)
  55. 医療法改正に伴う医療機関の広告規制に関するアウトライン(法苑187号)
  56. 私の中のBangkok(法苑187号)
  57. 性能規定と建築基準法(法苑187号)
  58. 境界にまつわる話あれこれ(法苑186号)
  59. 弁護士の報酬を巡る紛争(法苑186号)
  60. 再び大学を卒業して(法苑186号)
  61. 遺言検索システムについて (法苑186号)
  62. 会派は弁護士のための生きた学校である(法苑185号)
  63. 釣りキチ弁護士の釣り連れ草(法苑185号)
  64. 最近の商業登記法令の改正による渉外商業登記実務への影響(法苑185号)
  65. 代言人寺村富榮と北洲舎(法苑185号)
  66. 次世代の用地職員への贈り物(法苑184号)
  67. 大学では今(法苑184号)
  68. これは必見!『否定と肯定』から何を学ぶ?(法苑184号)
  69. 正確でわかりやすい法律を国民に届けるために(法苑184号)
  70. 大阪地裁高裁味巡り(法苑183号)
  71. 仮想通貨あれこれ(法苑183号)
  72. 映画プロデューサー(法苑183号)
  73. 六法はフリックする時代に。(法苑183号)
  74. 執筆テーマは「自由」である。(法苑182号)
  75. 「どっちのコート?」(法苑182号)
  76. ポプラ?それとも…(法苑182号)
  77. 「厄年」からの肉体改造(法苑181号)
  78. 「現場仕事」の思い出(法苑181号)
  79. 司法修習と研究(法苑181号)
  80. 区画整理用語辞典、韓国憲法裁判所の大統領罷免決定時の韓国旅行(法苑181号)
  81. ペットの殺処分がゼロの国はあるのか(法苑180号)
  82. 料理番は楽し(法苑180号)
  83. ネット上の権利侵害の回復のこれまでと現在(法苑180号)
  84. 検事から弁護士へ― 一六年経って(法苑180号)
  85. マイナンバー雑感(法苑179号)
  86. 経験から得られる知恵(法苑179号)
  87. 弁護士・弁護士会の被災者支援―熊本地震に関して―(法苑179号)
  88. 司法試験の関連判例を学習することの意義(法苑179号)
  89. 「スポーツ文化」と法律家の果たす役割(法苑178号)
  90. 「あまのじゃく」雑考(法苑178号)
  91. 「裁判」という劇薬(法苑178号)
  92. 大学に戻って考えたこと(法苑178号)
  93. 生きがいを生み出す「社会システム化」の創新(法苑177号)
  94. 不惑のチャレンジ(法苑177号)
  95. タイ・世界遺産を訪ねて(法苑177号)
  96. 建築の品質確保と建築基準法(法苑177号)
  97. マイナンバー制度と税理士業務 (法苑176号)
  98. 夕べは秋と・・・(法苑176号)
  99. 家事調停への要望-調停委員の意識改革 (法苑176号)
  100. 「もしもピアノが弾けたなら」(法苑176号)
  101. 『江戸時代(揺籃期・明暦の大火前後)の幕府と江戸町民の葛藤』(法苑175号)
  102. 二度の心臓手術(法苑175号)
  103. 囲碁雑感(法苑175号)
  104. 法律学に学んだこと~大学時代の講義の思い出~(法苑175号)
  105. 四半世紀を超えた「渉外司法書士協会」(法苑174号)
  106. 国際人権条約と個人通報制度(法苑174号)
  107. 労働基準法第10章寄宿舎規定から ディーセント・ワークへの一考察(法苑174号)
  108. チーム・デンケン(法苑174号)
  109. 仕事帰りの居酒屋で思う。(健康が一番の財産)(法苑173号)
  110. 『フリー・シティズンシップ・クラス(Free Citizenship Class)について』(法苑173号)
  111. 法律という窓からのながめ(法苑173号)
  • footer_購読者専用ダウンロードサービス
  • footer_法苑WEB
  • footer_裁判官検索