一般2020年09月08日 吾輩はプラグマティストである。(法苑191号) 法苑 執筆者:相場中行
1 夏目金之助と正岡升
話が斜めから始まって恐縮だが、子規こと正岡升は、自らの墓誌銘に「給料四十圓」と書かせるような徹底したリアリストであった。漱石こと夏目金之助は、明治三五年(一九〇二年)に子規が亡くなったときにロンドン留学中であり、うつ状態になって白紙の報告書を提出した話は夙に有名である。漱石のロンドン滞在期の憂鬱に関しては、キーツをはじめとする英米文学の大家出口保夫氏による「ロンドンの夏目漱石」(河出書房新社)という労作があり、漱石の憂鬱の原因について、環境とか。気候とか。食事といった種々の要因が指摘されている。ちなみに、ロンドン留学時代の漱石は全く無名であり、一九〇三年に帰国したのち、一九〇五年に「ホトトギス」に「吾輩は猫である。」を発表して文壇デビューを飾ることになる(この時点でのホトトギスの主宰は高浜虚子。)。
漱石と子規が肝胆相照らす仲であったことは有名だが、筆者にはどうも違和感があった。漱石の小説は、題材もアンチモラルみたいな話だし、正直に言うと漱石を読んでいると退屈してしまう(ドナルド・キーン氏も同じことを言っている。)。晩年胃病に悩まされて「則天去私」なんて言い出していてどうもよくわからない、と長年思っていた。
ところが、丸谷才一著「闊歩する漱石」(講談社)によれば、漱石本人は、闊達とした合理主義者だったようである。よく考えてみれば、漱石は牛込生まれのちゃきちゃきの江戸っ子である。先日、やっと漱石の「文学論」を読んで、ウィリアム・ジェームズ(名前は聞いたことがあるが、解説本すら読んだことがない。)の「意識下の流れ」についていろいろ述べていて得心した(漱石ファンの皆様、申し訳ない!)。ちなみに、漱石ファンの友人から指摘されたのだが、「猫」にも「ゼームスなどに云わせると副意識下の幽冥界と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応したんだろう。」などという一節が出てくる(らしい)。
子規は写実に没入し、漱石の小説の主人公はいつも自我との葛藤に悩んでいるが、それは、テーマ(主題)ではなくて単なる題材だったのだと考えると、個人的には腑に落ちる気がする。漱石にとっての不倫は、子規にとっての写実だったのである。前掲「闊歩する漱石」によれば、漱石は、ロンドン留学中にモダニズムの萌芽に接して、帰国してからジョイスに先駆けて近代主義文学を創作したということらしい(ジョイスが「ユリシーズ」を発表したのは一九二二年。)。漱石がプラグマティストであるとすれば、「三四郎」(丸谷才一氏によれば、この作品はジョイスの「ダブリナーズ」と多々共通点があるらしい。)や「猫」のような快活な作品から、突如、「門」のような難解な作品に展開することも容易に納得が行く。
2 法律学とプラグマティズム
プラグマティストというと、パース、ジェームズ(ゼームス!)に始まってジョン・デューイ、ミードという系譜が思い当たるが、漱石も、「文学論」においても「意識の波」に言及しており、ジェームズとパースの影響を強く受けているというのが漱石研究における定説のようだ。
法律の世界でプラグマティストというと、ホームズ判事(オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア連邦最高裁判事)が思い浮かぶ。ホームズ判事に、「法の生命は論理ではなく、経験であった。」という有名な言葉がある。ホームズ判事自身は、自らがプラグマティストであると認めたことはないようだが、経験や効果を重視し、法学を裁判の結果を予測する学問であるとして「道具」と捉える見方はまさにプラグマティズムそのものである。因みに、はっきりしないが、ジェームズとホームズ判事は、ハーバード・ロー・スクールで学友だったらしい。
ホームズ判事にとって、法は現在及び将来の人々を支配するものではなく、その時々の人々によく仕えるための「道具」であり、裁判官は、論理的に法命題を適用して結論を出しているのではなく、まず結論を出しその後に適用すべき法原則を見つけ出しているということになるらしい(ホームズ判事の著作の日本語訳文献がほとんど見当たらないため、以上は受け売りです…)。ホームズ判事の見解の是非はともかく、この考え方は、まさに実用主義であり経験主義である。最近流行りのマイケル・サンデルも「正義」を共同体との関連において論じているようだが、筆者にとっては、ジョン・ロールズもマイケル・サンデルも、実用主義的に議論を展開するという意味において、プラグマティズムの系譜を出ないように思われてならない。
他方、最近の法改正などを見ていると、我が国の法律学も極めて実用的な方向に向かっているように思われる。最近の会社法や金商法などの実定法の改正においても、極めて詳細にその要件が規定され、政令などのいわゆるソフト・ローと一体となって運用されている。その反動かも知れないが、近時、法哲学、法社会学、法史学などのいわゆる「基礎法学」を軽視する傾向があることは否定できない。
民法においても、今般の債権法改正によって給付の「瑕疵」という概念自体も無くなってしまった(用語としてはいわゆる品確法に残っている。)。伝統的な瑕疵担保理論によれば、本来、双務契約によって成立する双方の給付は、少なくとも契約当事者の主観においては牽連関係に立つ、と考える(対価的牽連性)。だから、双務契約に基づく給付に「隠れた瑕疵」があった場合には給付の対価関係に欠損が生じるので、瑕疵担保責任によって対価的均衡を回復するのだ、ということになる。このような議論は、極めて観念的で一貫性があるが、法律の外の世界に「対価的牽連性」などと言っても、全く理解されない時代になってしまっている。
3 想像の共同体
法律家にはあまり読まれていないが、「近代世界システムⅠ~Ⅳ」(岩波書店)を著したエマニュエル・ウオーラーステインは経済史学における大家である(実は、つんどく、でまだ読んでいない。)。ウオーラーステインによれば、「開発」とは、先進国が「周辺」を「未開発国」に開発することにほかならない(川北稔「世界システム論講義」ちくま書房、玉木俊明「近代ヨーロッパの誕生」講談社選書メチエからの受け売り…)。ウオーラーステインは、先進国と低開発国との取引は本質的に「不等価交換」であって、先進国の優位性を固定化するためのドグマなのだという。ウオーラーステインの世界観においては、「対価的牽連性」どころか、資本主義を形成する財貨交換において、真に双方の給付の経済的利益が均衡している契約など存在しない、ということになりそうである。
しかし、前述のホームズ判事の立場では、こういったウオーラーステインの議論さえ意味をもたないということになる。すなわち、ホームズ判事によれば、法の生命は経験であり、経験は、一定の文化に属する「共同体」において認識されるべきものであり「命題」ではない。だから、対価的牽連性どころか、不等価交換などという資本主義そのものに対する批判も、法の適用にも、社会の在り方にも関連性はないということになりそうである。
そこで問題となるのが「共同体」である。
我々法律家は、国家、というとすぐに国民と支配する領土そして統治組織の存在といった要件を思い浮かべるが、そもそも国家を形成する基盤となる共同体はどのように定義されるかは、民族とか、人種とか、文化といった法律学を超えた問題であり、筆者などには手に余る。この点につき、ベネディクト・アンダーソンというインドネシアを専門とする民俗学者に「想像の共同体」(増補版、NTT出版、なお原題は’Imagined Communities’)という著作がある。アンダーソンによれば、人種によっても、文化によっても、言語によっても「共同体」を定義ないし確定することはできないという(この議論は、前掲のウオーラーステインにも影響を与えているらしい。)。ナチス・ドイツの唱えた「アーリア人」などは、そもそも生物学的には存在しないのである。もちろん、一定の基準から人間の集団をグルーピングすることは可能だが、国家の前提となる共同体は多様な要素からなる一種の複雑系であって、一義的には定義も認識もできない。その意味では、直接に国家の骨組みを規定する憲法を頂点とする法体系が、一定のフィクション(例えば人民主権とか、国民主権)の上に構築されていることはほぼ間違いないようである。
こういう観点からすると、ホームズ判事の議論も「共同体」というフィクションの上に成立していると言わざるを得ない。アメリカ合衆国における人種差別の歴史などに鑑みると、ホームズ判事のいう「共同体」が本当にアメリカ社会を代表するものなのか、それは一部の共同体のみに依拠しているのではないか、極論すればホームズ判事の意識の中にだけ存在する「想像の共同体」ではないか、という疑念を拭い去ることができない。
4 共同体のアイデンティティー
話は変わるが、先日、「インカとスペイン帝国の交錯」(網野徹哉、講談社「興亡の世界史」一二巻)を読んでいたら、インカ帝国成立前のアンデス地域の社会は、「互酬」という原理を基盤としていて、相互に贈与しあうことにより社会的紐帯が形成され、互酬の範囲で社会の同一性が保持されているという話が書いてあってひどく感心した。そして、共同体間で食料とか、武器とか、兵士とかの「互酬」に発展して、複数の共同体におけるアイデンティティーが形成され、最終的にインカ「帝国」の成立に至ったらしい(そういう意味では、インカ帝国は「帝国主義」のテキスト上の「帝国」ではない。)。モースの「贈与論」などに親しんできた立場からすると、贈与の相互交換が成立する範囲内で社会のアイデンティティーが保持されるという議論は非常にわかりやすい(もっとも、この議論は、近代法における各種の契約秩序とは間接的にも結びつかない。廣中俊雄「契約とその法的保護」創文社を参照。)。こういった人的な(即物的でない)財貨交換によって巨大なネットワークが形成されたのがインカ帝国であり、そういう意味では、西欧的な基準からすれば前近代的な社会構造のうえに成り立っていた共同体だったらしい。
我々は、近代的資本主義社会は、こういった人的な財貨交換とはほぼ無関係であると思いがちである。筆者が、往年はじめてニューヨークに旅行し、メトロポリタン美術館に行ってみると、巨大な正面階段脇の壁にロックフェラーやら、リーマン兄弟やらメトロポリタンに多額の寄付をした者の名前がずらっと並んでいた。そのときは、こういった寄付すなわち贈与は、モースの言うところの争覇的贈与なのかと思っていたのだが、ウオーラーステインやアンダーソンの議論に親しんでみると、そうでもないような気がしてきている。アメリカという「共同体」は、蓄財、ありていに言えば金儲けに寛容である。ホームズ判事流に言えば、共同体において是認される限りは、特定の取引によってどれだけ巨額の利益を上げても正当な利益の範囲内にある、ということであろう。しかし、アンダーソンなどのパラダイムに即してみると、こういった寄付行為は、多額の蓄財を得た者がその属する共同体との一体性を保持するために行った贈与であると見ることはできないだろうか?
アメリカという強大な共同体の根源的なアイデンティティーがどこにあるのか、は筆者にとって大きな謎である。歴史的にも、文化的にもどう考えても共通基盤が見いだせない。これに対して、ヨーロッパ諸国や我が国においては、国家の基盤となる共同体のアイデンティティーは比較的強固である。筆者の個人的かつ直感的意見にすぎないが、こういった差異がアメリカにプラグマティズムをもたらしたのではないか。つまり、共同体としての紐帯が強い場合には、観念的な議論も成立するので、概念法学とか実証主義になじむような気がする。これに対して、紐帯が弱い場合には、観念的に規範そのものの有無及び是非を論じることは困難であり、実用主義的な、典型的にはホームズ判事のような議論に収束せざるをえないのではないだろうか?なお、ジョイスを生んだイギリス(正確にはアイルランドですが…)も、「アメリカ合衆国」と同様、実はケルト人、スコット人、ブリトン人、アングロサクソン、ノルマン人さらにはインド人などからなる「連合王国」という多民族国家である。このように考えると、我が国の法律学で条文解釈の問題としている命題について、プラグマティズムの本家本元であるアメリカにおいては、そういう主観的な作用に任せるわけにはいかないということになりそうだ。だからこそ、共同体としてのアイデンティティーが脆弱であることの裏返しとして、行政法規などについて詳細な規定が定められ、契約書も大部(いわゆる電話帳)になってしまうのではないか、という気もしてくる。
これに対して、我が国においては、その地理的、歴史的背景があるのかも知れないが、従前から「日本国」や「日本人」という概念をアプリオリに受け入れ、共同体のアイデンティティーについて疑念をもたない傾向が極めて強い。しかし、最近の実定法の実用化傾向を見ていると、その是非はさておき、近時の国際化の流れの中で、そういった我が国における社会的紐帯が弱体化しつつあることの裏返しであるような気がしてならない。
5 則天去私
漱石から話が始まって大分脱線したが、実は、漱石よりも鴎外(森林太郎)のファンである。鴎外がモラリストでかつロマンチストであることは疑いのないところだと思われるが、「鴎外の恋 舞姫エリスの真実」(六草いちか、講談社)によれば、エリスは鴎外を追って日本に来て約一か月滞在したものの、鴎外は毅然とした態度で接したらしい。これは、名作舞姫のロマンティシズムに適合しないように思われるが、個人的にはむしろ良く得心するところである。即ち、当時、鴎外は帝国陸軍医であったから、モラリストとしては国家に対する奉職を優先した、と理解することができる(ちなみに、鴎外本人は研究者になりたかったらしいが、第一大学区医学校(現東京大学医学部)の卒業席次が芳しくなく陸軍に奉職したらしい。)。その意味では、少なくとも軍人としての森林太郎は、徹底した教条主義者であるように見える(鴎外が「脚気栄養素説」を死ぬまで認めなかったことは周知の通りである。)。
ところで、松本清張は「昭和史発掘」(文春文庫)の天皇機関説事件の項で、鴎外の「かのように」(かのやうに)という小品を高く評価している。この作品は、暗に明治期の天皇制に対する危惧ないし畏怖(批判ではない!)をテーマとしており、陸軍軍医少将にまで上り詰めた人物がこんな作品を残すのか、という驚きがあるので、是非ご一読をお勧めしたい。こういった鴎外の精神の懊悩は、特に欧米人には捉えどころの無い理解しがたい主題のようで、英国人の近代日本文学研究者であるダミアン・フラナガン氏は漱石を高く評価している一方、鴎外には論評も加えていない(「日本人が知らない夏目漱石」世界思想社)。鴎外の世界観は、欧米的な合理主義では割り切れない、曰く言い難い東洋的な教養の集積(一種の複雑系?!)を基盤としているのであろう。
漱石も、晩年、「則天去私」という極めて東洋的な「スローガン」を掲げるようになった。「私の個人主義」においては「自己本位」を肯定的に論じている漱石が、いまさら天に従い私を空しくするとは、合理主義、個人主義とは対極にあるように思われてとまどいを感じざるを得ない。しかし、漱石も鴎外も明治人であって、実は教養の根はいずれも漢籍にある。そういう意味では、漱石も鴎外も同じ知的基盤を(補集合の関係で?)共有する関係だったのだろう(但し、漱石は丸谷才一氏が指摘するように、憂鬱なロンドンにおいてモダニズムの萌芽に接している。)。
筆者には、「私の個人主義」についても「則天去私」についても、論じる材料も資格もないが、漱石にとっては、「個人主義」も「則天去私」も所詮スローガンであって、漱石が小説家として、或いは「木曜会」に代表される社会との関わりにおいて利用したにすぎないのではないか。そうだとすれば、漱石は、その小説家としての人生において、本当にプラグマティズムを地で行ったことになる。そういう漱石だからこそ、ロンドン留学の報告書を(ロンドンの憂鬱はあったにせよ)あえて白紙で提出したと個人的には考えたいのだがどうだろうか?
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